【希望の神】を信じて

                     ローマ信徒への手紙15章7ー13節

 今日の全体協議会の準備をするために数冊の本を読んだ。私たちにはあまりなじみの薄い福音派の出版社から出された『これからの福祉と教会』には、これから教会は、社会に向かってどのような宣教(包括的・全人的)をするのかを、『公共の哲学』の稲垣久和氏が纏めている。福音派のイメージは、信仰に熱心であるが、社会のことには無関心で、原理的・聖書を逐語・逐字霊感的に読むというところだろう。けれども、最近は純福音と呼ばれている教会は「憲法」「原発問題」などに関しても積極的な発言をしている。(大いに学ばねばならない。)その纏めとして、オランダの神学者ヘンドリック・クレーマーを引用する。

 すなわち『教会は世界のために存在する。教会はミッションである。教会は職務(ミニストリー)である。教会はディアコニア(奉仕)である。そしてキリストの三重の職務(預言者・祭司・王)にディアコニス(奉仕者)を加えることにより四重の職務として、現代の教会の役割にも「奉仕者の職務」を重視し、それと同時に「制度としての教会」と「有機体としての教会」(賜物に応じてつくられるクリスチャン・コミュニティーやNPO)の区別を導入しています。日本の教会は世との関係を保つために、どうしても牧師職、長老職、執事職と並ぶディアコニア論(教会派遣の福祉専門職)を真剣に考える時代に入っています。』と言う。様々な価値観を受け入れ、そして自分の立場を明確にし、キリスト者としてこの世に仕えるという姿勢は私たちも学ばねばならない。

 パウロはここで、「あなたがたも受け入れなさい」と言っている。14章の前半には、「偶像に備えられた肉を食べることは罪」と考え、野菜だけを食べている人をパウロは「信仰の弱い人」とよんでいた。すなわち、自分の信仰に固執し、コチコチの人である。そのような人たちを「受け入れなさい」と言っていたことを思い起こしてほしい。受け入れるとは、積極的に自分の所に受け入れることである。イヤイヤしかたなくではない。キリストがあなたがたを受け入れて下さった。7節の「神の栄光ために」とは、どのようなことなのか、何処でその栄光は顕れるのか、と言えばそれが教会だという。

 教会とは、集まりという意味であり、ある人はこれを「福音的集会」と言う。そこには、14章前半で分かちあったように二つのタイプの信仰者がいた。すなわち「信仰の弱い人」と「信仰の強い人」、信仰の強い人たちは、未だユダヤ教の慣習にがんじがらめにされている人を「信仰の弱い人」と考えていた。

 そこでパウロは再びローマ信徒への9〜11章を踏まえて語る。それが「割礼」である。すなわちユダヤ人の優位性(マタイ15・24を参照)は、神との契約関係にある民(申命記7・7節)であり、そのしるしとて「割礼」を受けたことである。その民に対してイエスは奉仕者となられた。それは父祖たちの約束を果たすためであった。パウロは旧約聖書(70人訳)の詩篇18・50、申命記32・43 詩篇117・1を引用し、最後にイザヤ書11・10節「エッサイの根」へと続く。「エッサイ」とは、ダビデの父である(サムエル上16・13、マタイ1・5〜6、ルカ3・32、使徒13・22)ソロモン以後、イスラエルの国は南北に分裂し、苦難の歴史を辿る。

 希望の神(「救いの確かさそのものである神」)は、忍耐と慰めの源の神でもある。(ローマ15・5)イスラエルと異邦人と言う隔ての壁はもはやない。それゆえ、キリストによって私たちは神の栄光をあらわすものとして歩む恵みが与えられている。