【支え合う責任とは】
                     ローマ信徒への手紙15章1〜6節
 先週の月曜日、2.11東京集会に出席した。今回の講師は、伊藤 真弁護士であった。講演で、彼は生活保護費の削減、原発事故、沖縄に配備されたオスプレイのことなどを踏まえながら、現憲法の大切さを語られた。その中で、最も響いた言葉が他の法律は、国民を縛るが、憲法は「国家」・「権力者」を縛るものである。立憲国家の憲法とは、そのような考え方に基づいている。あらためて現憲法を大切にしなくてはならないと考えた。

 先週の水曜日から、レント(四旬節)に入った。私はもう一度マタイによる福音書を読み直した。系図、イエスの誕生とその誕生にまつわるエピソードそして、荒れ野の誘惑を経て、神の国の福音書の宣教者として、イエスは福音を語り実践する。彼は、人々から忘れ去られるような人々、すなわち、律法では「神の国」に入る資格がないと、レッテルを貼られた人々の友となる。やがて、当時の宗教的指導者たちは、イエスを鼻持ちならない存在から、消し去りたい存在と考え、彼は宗教裁判とローマの総督(代官)ピラトによってローマ法で裁かれ、十字架刑に処せられる。

 パウロは、ここで「私たちは強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではない。」と言う。強い者とは、14章で言う所の何を食べても構わない。と言う人たちであった。すなわちTコリント8章の「偶像に備えられた肉」を食べる人である。パウロ自身もユダヤ教的な汚れの概念から解放されているので、何でも食べてよい。考えていた。けれども、「配慮」の人であるパウロは、「兄弟を躓かせないためには、肉を食べない」と決心する。パウロは「強くない者の弱さを担うべきである」と言う。それは、イエスが「自分の十字架を負っている者でなければ、だれであれ、私の弟子でありえない。」(ルカ14・27)と言われた言葉であり、根が枝を支えるように根底から支えることを意味する。

 これは教会の姿を言い表している。掛け目のある「信仰共同体」が教会である。けれどもその教会は、神の恵みによって建てられ、神に呼び集められた「信仰共同体」であり、弱い人と共に歩む共同体なのである。マイノリティーの人たちを排除し、あるカラーの人しか集まらない教会は、ただのサークルに過ぎない。

 神の国とは、みんなの中でいちばん小さくされた仲間を大切にする共同体である。それゆえに、その共同体はTコリ12・22〜26節にあるように、様々なお互いのタラントを尊重するだけではなく、いちばん貧弱と思える部分に眼を向け、その部分を優先させる。そのような歩みをする者が、キリスト者である。「信仰告白」をするということはイエス・キリストを信じ、キリストのように歩む、すなわちキリストに倣う者に他ならない。

 パウロはここで、キリストの生き方について詩篇69編10節を通して語る。フィリピ信徒への手紙2章5〜11節の<キリスト賛歌>にはイエスの生きざまが凝縮されている。

 私たちもまたこのイエスの生き方に倣う者である。そのような私たちを神は守られる。それゆえに、どのような時にも、聖書を通して導かれ続けるのである。私たちは、知らねばならない。教会は「他者のための教会」であることを、すなわち、この世で蔑ろにされ、忘れ去られ置き去りにされてしまうような人の存在を大切にする。

 今日私は、「支え合う責任」と言う宣教題をつけた。自己責任で営む社会は、平気で弱者を切り捨て、痛みすら感じない。

 アベノミクスで恩恵に与るのは、誰であろうか。成長まっしぐら路線の人たちは、原発の再稼働を願って止まない。そのような人たちは、危険な環境の場所には住んではいない。犠牲になるのは、いつでも弱い立場に立たざるをえない人たちである。

 すなわち、経済の発展のしわ寄せはいつでも、力の無い人たちに集中する。フクシマそして「安保の犠牲」となっている沖縄もそうだ。

 その人たちの痛みを想像することしか出来ない人たちにも、私たちは宣教(伝道)する。それは教会形成(管理・運営)のためではない。そうではなく、みんなが幸せになるためには、支え合う必要があり、いちばん貧弱な部分が尊重される社会は何にもまして、聖書が語る。正義と平和を志向する社会だからだ。そのような「神の国」を宣教する使命が教会にはあると考える。