【神の国】とは
                    ローマ信徒への手紙14章13〜21節
 昨日、この教会で「葬送式」が行われた。H.Mさんが代表を務める「かつしか人権」ネットのメンバーで、大久保製壜闘争、指紋押捺反対や在日外国人無年金問題など、あらゆるマイノリティーの人たちを大切にし、徹底的にその人たちと行動を共にした人の前夜式・告別式であった。集まったメンバーの「送る言葉」を聞いた感想は、彼はクリスチャンではなかったが、イエスの感性で行動した人であると思った。

 パウロは、ここで「もう互いに裁き合わないようにしよう。」と言う。互いにと言うことは、対立するグループがあったことを示唆している。14章前半にはそのことが書かれている。少し先の15節には、「歩んでいません」とある。妨げる物(障害物)があれば、歩くことは容易ではない。けれども障害物は、避けて通ることも可能である。

 年をとると少しの段差でも、蹴躓き転んで、おもわぬ怪我をしてしまう場合がある。ある訳では、「障害物や躓く物がないように決めなさい」と訳す。兎に角、ここで「信仰の弱い物」を批判する人たちは、躓きと妨げを与える。すなわち、なぜ「肉を食べないのか」なぜ、「特定の日にこだわるのか」と批判するからである。

 「汚れた物など何もない」とキリストを信じる「信仰の強い人たちは」考えるに至る。(マルコ福音書7章15節と使徒言行録10章)。パウロが、この聖書のことを知っていて、このように言ったか、どうかは定かではない。けれども、未だにこだわっている人たち「信仰の弱い人」への「配慮」を忘れてはいない。彼は、自分の考え方を押しつける人に対して厳しく非難する「あなたは愛によって生きてはいない」パウロは言う。キリストは「信仰の弱い人」のために死んだのです。信仰の弱い人と信仰の強い人が、互いに啀み合い、対立することなく、歩むことこそが愛に生きることである。なぜなら、「神の国」とは、飲食ではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びであるからだ。Tコリント4章20節では、「神の国は言葉ではなく、力」と記されている。

 牢にいるバプテスマのヨハネの遣わされた弟子に「来るべき方は」という質問に対して、イエスが答えられる。(マタイ11・5)すなわち、苦しむ人たちが解放される。ローマ14・7によれば終末を意識して、生きることである。(Tコリント6・9) 教会は破れの信仰共同体であるにもかかわらず、神の国のひな形である。「神の国」を信じるものは、互いが互いを認め合い、受け入れる共同体を志向する。その共同体が目指すことは、誰も排除せず、「配慮」する共同体に他ならない。

 パウロは、Tコリント8章13節で「兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしない。」と言う。何を食べてもかまわない。汚れたものなどない。とパウロは、知っていた。けれども、「肉を食べてはならない」という決心はコチコチの保守主義者(伝統に引きずられている人)を教会から、「排除」してはならないと言うことだ。何が正しいか自分で判断しなさい、けれども「弱い人」を無視し、批判するのではなく、共に生きることで互いが成長することが「神の国」のひな形としての教会の姿である。そこには巷で騒がれている「体罰」のような一方的な支配の構図は存在しない。

 今週の水曜日から、レントに入る。この期間、私たちは、イエスの「受難」を心に深く留め、祈るものでありたいと願っている。すべての者のために死なれたイエスを通して、私たちは「神の国」を志向する者として、共に歩みたい。