【受け入れるためには】
エレミヤ30・1~10 マタイ7・1~10
                                      
 「神よ変えることのできるものについて、/それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。/変えることのできないものについては、/それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」
 
 この祈りは、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの祈りであるといわれている。祈りとは神との「対話」である。世界中の国々の祈りが集められた本がある。そこには、様々な祈りが記されている。感謝の祈りもあれば、どうして…という祈りもある。人間は希望が失われると生きてはいけないと『夜と霧』の著者E・フランクルは述べている。どんなときでも希望があるならば、人は生きていける。今、講壇のアドベントクランツに二本目のローソクが灯された。

 私たちは、クリスマスの喜びへと招かれている。その喜びを知るためには、イエスの苦難を避けることはできない。教会はこの期間にイエスの受難を心に留め、祈り、この期間を過ごしてきた。今日二つの聖書箇所が与えられた。エレミヤ書の30・1~10とマルコ7・1~13である。預言者エレミヤは孤高の預言者として知られている。彼は、神の言葉に忠実に生き抜いた。迫害を受け、投獄(軟禁)されてもその信念は揺らぐことはなかった。けれども、彼は世間で言う「強い人間」ではなかった。唯、神のみを信じ、そして「神の言葉」に生きた。

 イエスとファリサイ派・律法学者は激しく対立している。ここで言われていることは、単なる食事の時に手を洗う、洗わないという問題ではない。これは昔の人の言い伝えを堅く守り、自分たちこそが神の言葉に忠実に生きていると自負している者たちへのイエスの激しい非難の言葉がここにある。イエスの弟子(12弟子たちではなく、イエスについてきた人々たちも含まれる)たちは、ガリラヤ出身者が多かった。その為、食事の時に手を洗うという習慣が身についていなかったと思われる。イエスに敵対している彼らは、何とかしてイエスを告発しようとして、このような非難をしている。それに対して、神を信じるとは、自分をがんじがらめにして規則を遵守するのではなく、心から神の御心に生きることであると言う。

 今日は10節までを読んだが、本来は23節までを読まなければこの物語でイエスが何を問題とされたのかはわからない。宗教とは信じることである。信じるとは私たちの意思ではない。エレミヤの言葉によれば、神が選ばれたのである。(エレミア1・5)

 今日、私は「受け入れるためには」という題をつけた。受け入れると言うことは私たちの意思の働きであると思うが、そうではない。神が選ばれたと言う事実より他にない。ファリサイ派、特に律法学者は、「自分たちこそ正しい」と信じて疑わない人たちのようだ。そのような人々に向かって、イエスは6節で偽善者と彼らを呼んでいる。この言葉の意味は、古典ギリシャ演劇で、合唱隊長を指した。そして何が何でも自分が主役になりたいと願望する者を指した言葉で、転じて自分を支配する者を指すと言われる。『受け入れる』の著者加島祥造は、人生を△□○で表している。自然体で生きると言うことは「言うは易く行うは難し」である。コチコチの律法主義者には、考えられない。けれども、神を信じる生き方は、そこから自由である。その人たちには希望が与えられる。と約束される。