【もうすぐクリスマス】
 イザヤ40・1~11 マルコ1・1~8
                                      
 正面のアドベントクランツに三本目のロウソクが灯った。来週最後のロウソクが灯り、「待降節」から主のご降誕を祝う喜びのクリスマス礼拝を迎える。週報でも報告したが、先週「会津放射能情報センター」から、NEWSと第二期会津放射能情報センター活動報告が届いた。「3.11」「3.12」以後、被災地福島は二重の苦しみを負っている。すなわち、被災と放射能が及ぼす健康被害である。この報告を読みながら、カトリック教会の月刊誌『福音宣教』(2014.1号)を読んだ。希望の物語と題して、被災地福島の子どもたちのことが書かれていた。そこにはこのように書かれている「避難すると、非難される」。避難指定区域外からの避難者、いわゆる「自主避難者」で現在、幼いこどもを抱えた親が放射能被曝を避けるために、県内外併せて5万人が避難しており、県内にはおよそ2万5千人が避難しているとのことであった。未だ先が見えない原発事故による避難民がいる。ある人は「避難民」が「難民」となったと言うが、まさにそれが福島の現状である。しかし、それ以外の被災者も先が見えない中での仮設住宅で冬を迎えている現状を決して忘れてはならない。

 今日は、イザヤ書40・1~11とマルコ1・1~8を分かち合う。イザヤ書40章は、「慰めよ」という言葉ではじまっている。慰めよとは、苦難の状況を言い表している。バビロンに補囚(BC587~538)された民は、望郷の思いの中で日々過ごさねばならなかった。年取った者たちは、そこで生涯を閉じた。そのような「苦難」の中で、やがて解放されることを固く信じ、彼ら/彼女らは第二の出エジプトと言われるこの歴史を生きる。イエスの時代民衆は、ローマに支配され、また神殿宗教(支配階級)に苦しめられていた。特に地の民(アム・ハーアーレツ)と言うレッテルを貼られた人たちは、差別に苦しめられていた。そのような時代に生きた最後の預言者がバプテスマのヨハネである。ヨハネは、イエスを指し示す「指」である。彼は、ヨルダン川でバプテスマを人々に施した。マルコは最初にこの書を「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と書く。

 すなわち、新しい世界がここからはじまったことを人々に知らせる。ここで二つの言葉に注目してほしい。最初は、福音と言う言葉である。もう一つは、15節「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」である。神の国とは、神の支配を意味する。イエスの「到来」は新しい世界を意味する。その世界は、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11・5)しかし、その世界は途上である。その時その世界は「完成」する。

 南アフリカの父として、アパルトヘイトで闘ったマンデラ氏が95年の生涯を終えた。その時、わたしはM・キング牧師の「わたしには夢がある」と言う詩を思い起こしていた。マンデラ氏は、その思想を実践して、虹の国のビジョンを描いたのだと思う。けれども現実はそうではない。未だに差別があり、抑圧されている人たちがいる。しかし、その時は必ず来る。私たちは、既にと未だの「中間時」を生きている。イエスは、既に来られた。そして再び来られる。そのことを覚えて主のご降誕のクリスマスを迎えよう。