【御国にいる兄弟・姉妹と共に】
サムエルキ上2章4~11節
Ⅱペトロ1章3~13節

 旧約聖書コヘレトの言葉3章1節には「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と書かれており、同章17節では「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」と、記されている。このコヘレトの言葉は、賢者として知られているソロモン王が書いたとされているが、紀元前200年~180年のヘレニズムの時代に無名の著者によって書かれた。聖書には、「時」を表す言葉として、主に二つの言葉が使われている。

 キュプラロスは死の臨床研究をする中で、ガン末期の人たちがどのようにして、死を受容したのかを末期の人たちのインタビューを通して書いたのが『死ぬ瞬間』である。人は、「死に向かって生きている」どんなに若かろうが、皆、人は「死に向かって生きている存在」に他ならない。けれども、「自分の死」を意識する時は、愛する人を失うとき、自分の身に病が襲い、死を意識せざるを得ない時、そしてあの3.11等の自然災害で多くの命が失われたことを知らされたときである。毎日、新聞には死亡記事が載っているし、交番には昨日の交通事故による死亡者何名という数載っている。それを見ても、それは他人事にすぎないが、愛する人を失った時には、そのことを実感せざるを得ない。

 今日は聖徒の日・永眠者記念礼拝として、この礼拝が献げられている。天上にいる兄弟姉妹と地上に生かされている私たちが、この礼拝に招かれている。講壇の正面には、この教会で召された方々の在りし日の写真が飾られている。私がこの教会に招聘されてから召された兄弟・姉妹は11名で、そのうちこの教会などで私が司式した前夜式・葬送式の方は、10名である。天寿を全うして召された方もおれば、若くして自ら死を選ばれた方(その死を許したもう神)、病の末に旅立たれた方々がおられる。永眠者名簿には、31名の兄弟・姉妹の名が記されている。

 今、旧約、新約聖書3ヶ所を読んだ。旧約聖書には、神の人サムエルの誕生について書かれている。また新約のⅡペトロ1・3~13では、神の御国にふさわしい人の姿が、ギリシャ哲学を背景にして書かれている。そして最後のヨハネ福音書には、イエスが御国について語っておられる箇所がある。不安でたまらない弟子たちにイエスは語りかけられる「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい。わたしの父の家には住むところが沢山ある。」この家とは、私たちが住んでいる今の住居を指してはいない。それはこの地上を旅立った後の場所である。そこには、永遠の安住が用意されている。心配事、悩み、悲しみ、苦しみ、悲嘆はその場所にはない。(ヨハネ黙示録21・3~4)そしてイエスご自身がその場所へと私たちを導かれる。

 日本の言葉(思想)に「道」という言葉がある。道は人生を語る。すなわちどの道を歩むかによって私たちの人生が左右される。イエスはここで、弟子たちに向かって「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」といわれる。永遠の住まいを用意される方のこの言葉を私たち一人ひとりが「今」問われている。

 私たちは「死に向かっている存在」として、今をどのように生きているのかが、その問いを心に留め、共に御国へ凱旋された兄弟・姉妹と共にこの礼拝を献げている。