【貧しい人々から】
ルカによる福音書4章14~21節
                                         
 教団の行事暦では、今日は障がい者週間となっている。生まれつき障がいを負う人、病気や事故などで障がいを負う人、そしてその障がいには、見える障がいと見えない障がいがある。見える障がいは、他人には分かるが、見えない障がいはわかりにくい。さて、イエスはガリラヤで宣教を開始される。マルコとマタイは、このナザレでの宣教の前に弟子を選び、癒やしの奇跡と宣教すなわち、「神の国」の宣教がどのようなものなのか、語って行く中で、この箇所となるが、ルカは聖霊に導かれたイエスが、故郷のナザレでの宣教を語る。イエスは、安息日に会堂に入り、立ち上がられ、イザヤ書の61章1~2節を読まれるが、報復の箇所を読まず、代わりに58章6節を読まれる。

 この言葉を聞いた人たちはどのような思いを抱いたのであろうか。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれた。『もしも世界が100人の村だったら』で言えば、20人の栄養失調の人、25人の生活困窮者、14人の文盲の人たちが、そこにはいた。

 上村静というユダヤ教にも精通している若手の聖書学者が『キリスト教の自己批判』(新教出版)という本を最近上梓した。 そこには、キリスト者とは、教会の姿とはどのようなものなのかが語られている。すくなくとも、その「共同体」は、貧しい人たちを蔑ろにすることはない。彼は言う。「教会が二元論に陥ったとき、正統と異端という形で、多数派が少数派を異端として排除する」と、先日亡くなった漫画家のやなせたかしさんの代表作は「アンパンマン」である。彼はこのキャラクターを通して敵と味方、自分は正しい。相手は間違っている。という考え方は違うということを子どもたちへのメッセージとして語る。この世には絶対はない。そのことを忘れることなく、自己批判(本当に私は主の道を生きているのであろうか)すること、自己を相対化することの必要性を彼はアンパンマンを通して語っている。教会のあるべき姿は、二元論ではない。けれども、私たちはその罠に陥りやすい。貧しい人たちが優先される。ということは、どのような意味なのか、一人ひとりが考えなくてはならない。

 競争社会では、弱者は切り捨てられて当然。という扱いを受ける。私たちは様々な障がいを負っている人たちの事を心に留めなくてはならない。教会は障がい者のために…様々なマイノリティーのためにある教会ではない。障がい者と共にある教会であることが望まれている。すなわち、「ために」は、ややもすると、相手をあわれな存在と見るからである。障がいを負うことは決してかわいそうな事ではない。バリアフリーとは、段差のない建物だけを意味するものではない。それは私たちにある「偏見」という垣根を越えることを意味している。年齢を重ねれば、誰でも体力も気力も衰える。それは失う事を意味している。そして障がいをマイナスとして捉えれば、真のバリアフリーを築くことは出来ない。

 私たちは、「ために」から「ともに」へと価値観を変えなくてはならない。聖書を読むことで価値観を変えることができるのではなかろうか。聖書はサクセスストーリーではないからだ。聖書は人を物として見てはいない。一人ひとりは神の被造物であり、掛け替えのない存在に他ならない。貧しい人からとイエスが言われたのは、まさに「ために」ではなく「ともに」ということに他ならない。様々な人たちと連帯し、「ともに歩むために」私たちはイエスの言葉と振る舞いを聖書から聞くものでありたい。