【誘惑かそれとも試練か】

ルカによる福音書4章1~13節

 北九州ホームレス支援機構理事長の奥田知志さん(日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会牧師)が西東京教区でなされた「第13回全体研修会」の講演が元になっている小冊子TOMOセレクト『「助けて」と言おう』を読んだ。奥田さんや本田哲郎さんがすごいと思うのは、その働きもさることながら、自分の「弱さ」をあからさまに出せると言う事である。本田哲郎さんは、釜ヶ埼での体験を通して語る。そして奥田さんは不登校になり、親として二進も三進もいかなくなった時の心情を率直に語っている。そして息子が望んだ八重山の西表島のすぐそばにある「はとま島」に息子を預ける。今まで他人の為に働いてきた牧師が親として、息子を預けることになった老夫婦に「助けて」と言った瞬間である。

 パウロは、Ⅱコリント12章5節でこのように語っている。「このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」競争社会を勝ち抜き、自分だけは蜘蛛の糸にぶら下がる資格がある。と言うような考えの持ち主には理解出来ないと思う。

 今日は、神学校日・伝道者奨励日としてこの礼拝が守られている。伝道者に必要なものは何か。数えあげればきりがない。そしてその条件をクリアーしてはいない自分がここにいる。私が、今日皆様と共に分かち合いたいテキストは、ルカ福音書4章1~13節である。

 イエスは、宣教をはじめる準備として、荒野で誘惑を受けられる。マルコは、簡略にそしてマタイとルカはその時の様子を克明に記している。マタイとルカでは、2番目、3番目の誘惑の順番が違う。イエスは、聖霊に満たされてヨルダン川を去り、荒野に導かれる。40日間、悪魔から誘惑を受けられ、そして空腹になられる。人間の極限を経験される。最初に悪魔は、石をパンに変えてみろと言う。ルカはここで、旧約聖書のある物語を念頭に置いて書いている。

 すなわち、モーセがどのような試練に遭い、何が起きたのか、預言者エリアに、神は何をなさったのか、そのことをわたしたちは、聖書を通して知らされる。(出エジプト記34・28、申命記9・9、列王記上19・4~8)イエスは、そのような極限状態の中で、奇跡で対処するのではなく、「人はパンだけで生きるものではない」(申命記8・3)と言い、次に悪魔は、世界の繁栄を見せつけてさらに誘惑する。イエスは、「あなたの神である主をおがみ、だだ、主に仕えよ」(申命記6章13節)と答えられる。最後に神殿の屋上に立たせ、「あなたが神の子なら、ここから下へ身を投げなさい。」と悪魔は言う。(詩篇91編11、12)それに対して、イエスは「神である主を試してはならない」と言われる。 すなわち、力による解決ではなく、父なる神を信頼することによって、彼は試練に打ち勝ち、悪魔の誘惑を退けられる。

 試練と誘惑は表裏一体である。信仰者は、自分の弱さを誇るがゆえに試練にも誘惑にも打ち勝つことが出来る。神の言葉にひたすらつながり続け、どんなときでも信頼することが出来れば、わたしたちはその試練を乗り越えることが出来る。ルカは、13節でこのように記す。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。」すなわち、最後の試練・誘惑、(ルカ22・39~46)こそが、その時であった。それは十字架の道に他ならない。 「他者のために生きる」と言うことは、伝道者だけではない。聖書を読むすべての人は、聖書に生きようとするならば、その道へと導かれる。しかし、その道は能動的だけではなく、受動的でもあることを忘れてはならない。その道こそが、わたしたちを「高価な恵み」へと導く。(D・ボンヘッファー)