【神が求められる生き方とは】
ローマ信徒への手紙13章8〜10節    

 今日は「公現日」である。すなわち、教会暦に従えば遙々東方から星に導かれてやって来た占星術師の物語(マタイ2・1〜12)を読む。既に先週その物語を分かち合い、ヘロデの道か、それとも占星術師が「夢でヘロデのところへ帰るな」とお告げを受けて別の道を通ったように、福音に生きる道か、を問うた。イエスに倣う道は、排除するのではなく、受容することである。そのことを踏まえて、11月18日以後中断していたローマ信徒への手紙13章8節以下を分かち合い、学び合いたい。

互いに愛し合うことには
 今日の箇所の特に後半の「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉は誰もが知っている。パウロは、「互いに愛し合うほかは、誰に対しても借りがあってはならない」といっている。すなわち、「愛し合う」ということは借りがあってもいいということになる。7節の言葉は、自分の手の届かない、めぐりめぐってわたしたちが貧しくさせてしまってきた人たちに「借りを返す」という意味で納税の義務があるという。

 今生活保護が問題にされている。「保護費の一割削減を今後考える」と、担当大臣は語っている。確かに不正受給の問題はある。生活保護を貰うことが出来ずに、貧困層の人たちがいる。(専門家の指摘では、必要としている人の20%しか保護されてないとも言われている。)また高齢者がいる。その人たちはその年金で生活費を賄い、医療費も一部負担しなくてはならない。それは不条理と言える。けれども、保護費を減らすことで何をうみだしていくのか、その後にどのような社会が待っているのか、想像してほしい。自己責任で何でもかんでも行う社会は、神の下にはない。

本質を見つめ直す
 パウロは人を愛する者は、律法を全うすると述べている。律法とは何か、それは神の民イスラエルに与えられた契約であり、「法」である。その法は、元来は人間に優しく、弱者を大切にするものであることを知らねばならない。9節以下は、「十戒」にある文言に他ならない。(出エジプト記20章)そしてその後「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記19章18節が引用される。私たちは「富める青年の物語」(マルコ10章17節)やある律法学者との問答(マルコ12章28節以下)、そしてルカ福音書の「良きサマリア人の譬え」(ルカ10章25節以下)にこの言葉があることに気づく。ルカは37節で「あなたも同じようにしなさい」と、イエスが語られたと記す。まさにイエスは、十字架の死に至るまでそのことを実践された。神が求められる生き方とは、福音を実践することである。「律法の中心」とは何か、「隣人とは誰か」と問うのではなく、その答えが見いだせたならば、それを行動に起こすことに他ならない。

私たちが選択すべき道
 成長路線まっしぐらで、金融を緩和し、株価を引き上げ、円高を是正する。そのことによって、デフレから脱却することが出来る。インフレを意図的に起こすことが景気を回復することになる。所謂「アベノミックス」が、果たしてそのような政策が人に優しい社会を築くことになるのか、長く難民支援をしてきたカトリックの司祭が難民キャンプのリーダーが「わたしたちは忘れ去られている」という言葉を紹介していた。「選択」と「集中」ということが、教団でもいわれている。そこには切り捨てられる人の痛み、悲しみはない。わたしたちはそのようなマネージメントを超えた所に「教会」は存続し続けると考えている。伝道がそのような「効率論」で語られることには違和感があるし、納得がいかない。わたしたちは、ヘロデ王の道を歩むのか、それとも「別の道」すなわち福音の道を歩むのか、が「今」問われている。