【キリストを着る】ということ
ローマ信徒への手紙13章11〜13節    
                                        
権威の象徴ではなく
 私事で大変恐縮であるが、20代前半から、30代前半までは、今のようなファッションではなかった。どうしてかといえば、当時私は救世軍に属していた。そしてそこで教職すなわち士官として働いていたので、救世軍の制服を着ていた。救世軍の制服は、「軍」という名称でもわかるように軍服である。それは権威のためのファッションではない。

 救世軍は1865年東ロンドンでその働きを開始した。メソジストの牧師であったウイリアムブースは、当時の教会は貧しい人たちが礼拝に来ると怪訝な顔でその人を見た。貧しい人々はその場所に自分の居場所を見つけ出すことはかなわなかった。そのような人たちに対して、「あなたも神さまに愛されている」と伝えたのが、ウイリアムブースであった。

 産業革命によって貧富の差が広がった時期と重なり、貧しい人たちは食うためには何でもやらねばならない境遇に置かれていた。当時の教会はその人たちは招かれざる客であった。創立者のウイリアムブースのモットーは、スリーSといわれる。すなわちスープ、ソープ、サルベーションである。その人たちと共に生きるために、組織を作り、制服を着用して、教会の外にいる人たちにキリストの福音を宣べ伝えたのが、「救世軍」のはじまりである。

キリストを着る
 今日の箇所に「身につける」「身にまといなさい」という言葉が出てくる。身につけるというのであるから、それまでは身につけてはいなかったということである。

 パウロの他の手紙では、「信仰と愛とを胸当てとして着け」(Tテサロニケ5、8)と記されている。そしてガラテヤ3・27「バプテスマを受けてキリストと結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」と記される。すなわち、「光りの武具も」「イエスキリストを身にまとい」のいずれも「バプテスマ」を意味している。

 キリスト者らしい生活とはどのようなものなのか、パウロは当時のローマの人たちの日常生活に対してそれは「相応しくない」といっている。それが13節に出てくる「小悪徳表」に他ならない。それは単なる道徳的な勧めではない。

相応しいファション
 大阪の体罰事件でまた「心のノート」が復活するようであるが、そのよう意味で考えられている道徳ではない。放縦な生活に対してパウロは、厳しく戒める。救いが近づいているのにそのチャンスを逃すようなことはしてはならない。

 闇の行いを脱ぎ捨て光りの武具を身につけなさい。救いの恵みにあずかった者として、洗礼の恵みに与った者として歩みなさい。生活しなさい。と自由を履き違え放縦な生活に対して抑制することなく、そのままその生活を続けることはよくない。といっている。

 9節でパウロは律法の本質を知り、それを生きろと言っている。まさに13節はその反対を生きている。彼は終末が間近であると信じていた。そのため、性生活に対しても禁欲的であるようにと語る。

 先週私たちは、11節節を中心に分かちあった。「隣人を自分のように愛する」ことと放縦な生活は相容れない。自分の「安心立命」のみを追求し、キリスト者らしく生きることは出来ない。そのためにはキリストを身にまとう」ことが大切となる。私たちは、キリストを着るひとりひとりだ。クリスチャンらしいファッションなどない。そのような「霊性」が身につくとき、恵みによって私たちはキリストの香りを放つ者となる。