【今の時を誠実に生きる】
ローマ信徒への手紙13章11〜13節    
                                           
何事にも時がある
新年愛餐会でそれぞれが新年の抱負を語り合った。その内容が本日発行されている「黎明」に記されている。印象的だったのは、Hさんが「年をとるにしたがって、来年はどうするのか、今年はどうするのか、今月はどうするのか、今週はどうするのか、今日はどうするのか、という心境になってきている。」誤解を恐れずにいえば、人生の終末を感じる時、人はこのような心境になるのだと思う。コヘレトの言葉3章には、「何事にも時がある」と記されている。このことで思い出されるのが所謂教団の「戦責告白」を議長名で行った鈴木正久牧師のことである。彼は、自分の終末(死)を受けとめるに当たってこの言葉を繰り返し、繰り返し読んだ。そして心読したといわれている。膵臓ガンで彼は、56才11ヶ月でこの世の旅を終えた。彼は西片町教会で召天する2ヶ月前まで講壇に立ち説教した。彼の説教に「終わりの時」というUテサロニケ2・1〜12をテキストにした説教がある。彼はその説教で、時「クロノス」というギリシャ語に言及し、次のように語っている。「クロノスというのを、ギリシャ人は化けものの形で考えました。体は人間の体つきだけれども、頭はけだものの頭をしている怪物である。このクロノスは、子どもを毎日産むわけです。しかし産んだ子どもをみんな自分で食べて殺してしまいます。こういう具合に、時というものは毎日毎日新しい時が出てくるけれども、しかしその一つ一つがなくなってしまう、死んでいってしまう。こうして私たちはすべてがやがてまた、死の中に過ぎ去っていってしまうのだ。」(1968年11月24日)

カイロス
 鴨長明は「方丈記」の冒頭からそのことを語っている。すなわち人生の無常を語る。パウロが語るここでいう「時」(カイロス)はそのような時ではない。本田哲郎訳では「時」(カイロス)をチャンスと訳している。チャンスという人形は、前髪だけしかなく、後ろは禿げているので、前髪をつかみそこなうと、二度とその人形をつかむことは出来ない。これが機会・好機という意味である。パウロはこの「時」(カイロス)は一回限りの「時」であるという。つかみそこねたら、それでおしまい。それは「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)に通じる。神の国とは、神の支配を意味する。終末とは、終わりの時ではなく、再生の時である。終末は、恐ろしい時ではなく、眠りから覚めた者(復活を信じ、生きる者)にとっては新しいいのちのはじまりを意味する。だからこそ、この時は「救いの時」すなわち、チャンスということになる。私たちは詩篇90編10節にあるように「死を迎える」けれども、その時は終わりではなく、はじまりであることを知っている。

 パウロのように私たちは、終末が近いとは思ってはいない。終末は延期されている。詩篇90・4、Uペトロ3・8には、「一日は千年のようだ」と記されていることからすれば、まだ二日を過ぎたばかりということになるだが…。 

1日1日を大切に
 大切なことは、今を生きることである。一日一日、私たちは年を重ねる。すなわち、年を重ねるにしたがって、来年はどうするのか、今年はどうするのか、今月はどうするのか、今週はどうするのか、今日はどうするのか、という切迫感を感じる。だからこそ、今を誠実に生きる。いつ主が来られてもうろたえることなく、主の約束を信じ、終わりの始まりを生きる。己の「安心立命」に生きるだけではなく、「隣人を自分自身のように愛する」(レビ19・18、ローマ13・10)ために生きる。時を知り、恵みに活かされている者として。