【マリアの息子ではないか】
 部落解放祈りの日メッセージ マルコによる福音書6章1~6節


 先週の木曜日は、ネルソン・マンデラ国際デーで、国連パン・ギムン事務総長は、「95歳の誕生日を迎えたマンデラ元大統領の回復を祈るとともに、他者のために行動を起こすことで、私たちの案ずる気持ちを具代的な形で表現しようではありませんか。」とこの日の意義を語っている。

 ネルソン・マンデラ元大統領は、67年間を、人権と社会正義を求める闘争に捧げた。それにちなんで67分間のボランテイアをしようと、呼びかけ、南アフリカだけではなく、日本に住む南アフリカの人たちが、高齢者施設でボランテイア活動をした様子が、先に挙げた国連事務総長のメッセージとともに紹介されていた。彼は大統領になる前、67年間このアパルトヘイトのための闘争を行い、67年間のうち、27年間は獄中での生活を余儀なくされる。

 差別は、世界中のあらゆるところで起きている。
日本にも様々な差別がある。そして差別される側は、その不条理を訴える。けれども、差別する側の多くは、「自分は差別などしてはいない」と信じて疑わない。すなわち、私たちは他人の痛み、苦しみに対しては極めて鈍感である。

 今日は、部落解放祈りの日として、部落解放センターの「式文」によって礼拝が献げられているが、この日私たちは、あらゆる差別、マイノリティーに対する偏見が私たちにあることに気づかねばならない。

 今日読んだ聖書箇所は、共観福音書すべてに記されている。しかし、注意して読むと、マルコはここでマタイ・ルカの両福音書と異なっている。それが、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」である。これは古代の話である。現代のようなイメージで考えてはならない。(クロッサン)と言う。彼は言う「「大工」と訳されたテクトーンは、正確にいってどういう社会的、経済的階級に属していたのだろうか。まず大切なのは、「大工」という言葉を、技量をもち、高賃金を稼ぎ、人々に尊重される中産階級の一員として理解することは出来ないと記す。「あのマリアの子…」もそのような差別的な反応として受け止めることが出来る。

 イエスは、フィリピの信徒への手紙の2章6節以下の<キリスト賛歌>、詩篇113編6節以下によれば、徹底的にこの世のどん底に立たれる。多くの場合は、そのような境遇に置かれれば、人は自分を卑下する。またそのような境遇に立たされていない人たちは、差別はしなくても、憐れみの目でその人たちを見る。

 この日、私たちの教会では、「全国水平社宣言」をこれから読む。今回、これがどのように起草されたのか、その経緯について説明したい。またこの宣言を受けて、「水平社宣言と天皇制」という住井すゑの文を最後に紹介する。「誇りうる時」が来たのだ。その日を信じて私たちは、祈り合い、自分が出来ることがあれば、それを実行しよう。私たちの教会が、そのための証しとして、被差別部落出身者ゆえに差別され、刑事被告人として不当裁判で収監された石川一雄さんの無実を勝ちとるその日まで、彼の「見えない手錠」が外される日を信じて行こう。支援の輪を拡げていこう。