【賜物を活かし合って】
                      ローマ信徒への手紙12章1〜8節
 先週、礼拝とは何かを共に分かち合った。そして神に招かれた私たちが礼拝を献げるとは、神に喜ばれる献げ物として、各々が「献身」すなわち「信従」することであることを確認した。1〜8章の教理とそれを踏まえて9〜11章でイスラエルの歴史を通して、パウロが語る「選び」について学び合った。12章からは「倫理」である。そしてその土台は礼拝に他ならない。すなわち教会は、「信仰共同体」「礼拝共同体」と言うことになる。3節以下ではその「共同体」である教会とは、どのような組織であるのか、を学び合いたい。

 この箇所を読んでわたしは、二箇所の聖書箇所が思い浮かんだ。ひとつ目は、マタイ福音書25章14節以下、もう一箇所はTコリント12章12節以下である。
 
 最初の聖書箇所は、タラントのたとえとして知られている。すなわち、主人はそれぞれの力に応じて、5、2、1タラントを与えたと言う譬え話である。1タラントは、労働者の賃金の6,000日分に相当する。5、2タラントを主人に与えられた僕たちは、旅に出た主人が帰ってくるとそれを倍にして主人に差し出したが、1タラントを与えられた僕は、1タラントを主人に差し出し、厳しく叱責される。大切なことは、それぞれが与えられたタラントを「神の国」の働きのために活用することである。けれども、この譬え話には続きがある。それが、25章45節「はっきり言っておく。このいちばん小さくされた者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったのである。」(本田哲郎訳)である。

 タラントは、自分の自己実現のために与えられたものではなく、支え合い、分かちあうためにある。「有機体」である教会は、各々の与えられた役割(部分)を果たすことで成立し、皆、掛け替えのない部分である。しかもいちばん貧弱に見える部分を大切にしなくてはならないのである。(Tコリ12・24)しかもここには、これまでのパウロの牧会経験が土台となっている。パウロが言いたいことは、それぞれが賜物(カリスマ)に応じて役割を果たせということである。

 使徒言行録6章には、主に食事の世話をするためにステファノ以下7人が選ばれたと記されている。ここには、ヘブル語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人との確執が背後にあるのだが、食事の世話をする役割を担ったステファノ以下の人たちは、神の言葉を話す人たちよりも能力がなかったわけではない。それぞれの役割が違っていた。2節でこの世に対する私たちの姿勢が語られている。(背後にある終末観)そして5節以下で、預言、奉仕、教える、勧める、施す、指導する、慈善の7つが語られている。その土台にあるのが礼拝であり、そして神との繋がりに他ならない。競争社会とは、別のベクトルがそこにはある。

 教会は、己の安心立命を得るためにだけあるのではない。各々の魂の平安も軽視してはならないが、この世に仕えるために教会があるというミッションを忘れてはいけない。奉仕とは、仕えることである。すなわち、他者のために仕えると言うことに他ならない。

 教会は、「礼拝共同体」である。けれども、もう一度確認しておこう。すなわち、その共同体は「他者のために仕える」共同体であることを、堀切教会はそのようなミッションを大切にして、互いに祈り合い、支え合っていこう。派遣の時の讃美歌91番の歌詞には、そのことが端的に語られている。