【共に喜び、共に泣く】
                      ローマ信徒への手紙12章9―17節

 朝日新聞で連載されていたシリーズが、完全版 『いじめられている君へ いじめている君へ いじめを見ている君へ』として出版された。さまざまなジャンルの人、63人が自分の体験を通してこの問題に真剣に向き合って、書いている。その中のひとりに川渕圭一さんがいる。彼は小学校から中学校までいじめられた自分の事を書いている。作家であり、医師である彼は大学卒業後引きこもりになり、37才で医師となった。彼の書いた小説をもとにしてSMAPの草g剛さんが演じたのがドラマ「研修医物語」である。 

 誰がいじめられている子たちに手を差し伸べるのか、それは学校だけで行えるようなことではない。社会全体がいじめに対してNOと言えるような社会を作らねばならない。そのために大切なのが「想像力」(イマジネーション)である。

 聖書を読むときにもこの「想像力」が必要となる。イエスが関わられたのは、どのような人なのか。先週、教会員のMさんが「寅さんとイエス」という本を修養会の発題の中で紹介された。この本を書いたのはカトリックの神父で「典礼学」特に「聖餐」を研究している人である。彼はイエスと渥美清演じるフーテンの寅さんの作品を比較して「イエスとは誰か」と、問う。

 いじめられている子どもが相談に来た。と想像してほしい、その時、いじめられた子どもの側に立って相手の話を聞くためには、イマジネーションを働かせ、共感(共苦)することである。真剣に向き合うのである。その時、相手との関係がはじまる。パウロは机上の人ではない。使徒言行録によれば彼はガマニエル(5章33〜39節、22章3節)の門下生である。彼は師のように穏健ではなく、「義憤」に駆られたとは言え「この道の者」と呼ばれていたキリスト者を徹底的に迫害・弾圧した。その彼がダマスコ途上で復活のイエスに出会い「この道の者」を迫害・弾圧する者から、「この道を推進するもの」へと180度の転換を遂げる。そして彼の人生は平坦ではなくなる。(使徒言行録9章20〜22節)あらゆる苦難が彼に襲いかかる。Uコリント11章26節には、福音宣教者として生きる彼の苦難が語られている。

 今日の箇所は、読めばわかる。理解することは出来る。しかし、理解するだけでは不十分である。12章からは「倫理」が取りあげられていると述べたことを思い起こして戴きたい。3〜8節には、賜物を活かし合うと言うことが語られた。すなわち、言葉と実践を通して福音宣教は前進する。(数の大きさではなく中身)さらに3節以下を踏まえてそのことをパウロは語る。パウロはここで命令調には語ってはいないという。以前「十戒」を通して学びあったとき、「〜をしてはならない」ではなく「〜をしないだろう」というニュアンスについて述べた。すなわち、神とつながり、人とつながる者は主が共におられるがゆえに「〜をしなさい」ではなく、出来るだろうとして読んだ。ご自分の被災体験を語っておられる山浦玄嗣さんの『3.11後を生きる 「なぜ」と問わない』という講演をもとにした本がTOMOセレクトとして出版された。彼は原典(ギリシャ語)から福音書を故郷の言葉である気仙語に翻訳した。

 昨日も彼の講演会を録画したDVDを聞いた。彼は「愛」を「大切に」と訳す。今日わたしは宣教題を「共に喜び、共に泣く」とした。12章以下は「倫理」である。想像力(イマジネーション)を大切に、Tコリント13章をまとめの言葉としたい。共に生きる。共に泣くと言うことは、「言うは易く行うは難し」である。私たちは礼拝を通して、導かれ、力を得て、このみ言葉を生きる者として下さいと、神さまに祈り続けよう。