【なすべき礼拝とは】
                         ローマ信徒への手紙12章1節
 野田首相への「問責決議案」が参議院で可決された。国会は会期末を待たずに、実質上閉幕、消費税以外の法案は店ざらし状態となった。橋下徹率いる「大阪維新の会」は国政に向けてマニフェスト「維新八策」を表明した。国外では、アメリカの大統領選挙が11月に行われ、現職のオバマかそれともロムニーかのいずれかが、1月末日には、大統領に選ばれる。共和党のロムニー氏が選ばれると、モルモン教徒が大統領となる。

 いずれの大統領候補も毎週礼拝に出席している。(毎週礼拝に与っていることで信仰の有無も神とどのようにつながっているのかを推し量るものではないのだが…)

 キリスト教とは、何かと問われれば、わたしは教会である。すなわち「礼拝共同体」「信仰共同体」と答える。

 礼拝とは、人間が神に献げる感謝の行為である。パウロは、8章までで「教理」の根幹を語り、そのことを踏まえて選民イスラエルについて語り終え「倫理」の部分に入る。その冒頭にあるのが、12章1節の言葉である。

 旧約聖書の「香しい香り」と言う言葉は象徴的だ。レビ記1〜7章には、「焼き尽くす献げ物」「穀物の献げ物」「和解の献げ物」「贖罪の献げ物」「賠償の献げ物」などの神との関係を修復(改善)するための献げ物のことが書かれている。特に、贖罪のためには動物(牛、羊、山羊など)が献げられた。列王記上3章3節には「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台で生け贄をささげ、香をたいていた。その後、彼がいかに優秀で知恵に満ちた王であり、絢爛豪華な神殿建築の様子が語られ、9章25節には神殿の完成が語られている。そして主の前に香を焚いて神殿は完成する。

 ソロモン死後、南北分裂時代の苦難を経て、預言者(アモス、ホセア、イザヤ、エレミヤ)たちは問う、神が喜ばれる生け贄は何か、ホセア6章6節には「わたしが喜ぶのは愛であって生け贄ではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」と、形骸化する献げ物(礼拝の在り方)が問われている。旧約時代に行われた動物による「犠牲」の献げ物、すなわち儀式は、キリストの十字架によって終わり(ローマ10・4)、人が救われるのは、行いではなく、信仰である「信仰義認」の教えが8章までに語っている。そしてその神の恵みによって、生かされている者は、その恵みへの応答として、動物ではなく、自分の体を献げなさいと強く勧める。(ローマ6・13、19)すなわち、「献身」である。私たちは、己の「安心立命」のためにだけ礼拝に招かれているのではない。この世に仕えることもまた招かれた者の使命である。

 今日わたしは、宣教題を「なすべき礼拝とは」とした。すなわち、私たちが献げる礼拝は、神とのつながりに生きることでなされることであり、理性的、論理的な礼拝が「霊的」なのである。すなわち、神との繋がりに生きるとは、この世を客観的にみる「眼」を持つことである。

 中高生に向けて書かれたマルティン・ルーサーキング−共生社会を求めた牧師−を読み、感動したので紹介したい。その中にコーヒーカップの祈りがある。「公民権運動」のリーダーとして、彼は常に危険に晒される。ある深夜、彼に「お前の頭をぶち抜き、お前の家を爆破するぞ」といういつもの脅迫電話ではあったが、その時は彼の心は乱れに乱れ、彼はコーヒーカップの上にうつぶせになり祈る。すると、主の声が聞こえる「義のために立て、真理のために立て、見よ、わたしはあなたと共にいる。世の終わりまで」神さまは、弱い、破れの中にあり、自分の力では何も出来ない私たちを用いて下さる。諦めてはならない、主日礼拝ごとにそのことを確認し、主の招きに応えて行こう。