【とどまり続けるなら
                  ローマ信徒への手紙11章17〜24節
 朝日新聞の読書書評で中島岳志さんが伊藤 乾さんの『笑う親鸞』を取りあげていた。親鸞は、「民衆」が識字教育も十分に受けてはいなかった時代(鎌倉)に「節談説教(ふしだんせっきょう)」で聴衆を爆笑の渦に巻きこんだ。そして漫談が佳境に入ると、その語りに「節」がつく。このようにして親鸞は、民衆に仏教(念仏)を説いた。

 この話しの「音」「響き」に注目して書かれたのが、作曲家=指揮者で、大学院の情報学環の准教授の本であるという。彼は、「福音と世界」に交響する啓典の民で宗教対話を行っている日本聖公会の信徒である。落語は「お経」のお説教が起源であると言う。日常の言葉でわかりやすく語る。しかも落ちがある噺は魅力がある。けれども、時代、環境などが違うと、その言葉の意味がわからないこともある。

 イエスの譬え話の中にある「種まきのたとえ」などもそのようなことが言えるかもしれない。パウロは、ここで接ぎ木について語っている。

 接ぎ木のたとえを通して、パウロは神の救いの歴史は、頑ななイスラエルから異邦人へともたらされたということを「接ぎ木」のたとえで語る。オリーブの木はパレスチナにおいても植物性脂肪食品の供給源として重要な果樹であり(出23:11,申6:11,申28:40)、野生のオリーブの若枝が高さ2mほど伸びた時、その幹を切って良いオリーブの枝を接木する。成長は遅く、10〜14年で結実を始め、30年以上で完全な収果が出来るようになる。ここで私たちは、気がつくのである。本来の接ぎ木とは、正反対のことをパウロがここで譬え話にしていることを、すなわち「枝が折りとられたのは、私たちが接ぎ木されるためだった」(ローマ11・19)と言う言葉に注目したい。

 私は、この「接ぎ木」のたとえを通して、イエスが語られた「わたしはまことのぶどうの木」(ヨハネ15・1〜17)の弟子たちへの決別メッセージを思い起こした。ここでは、「つながっていなさい。」と言うことがいわれている。私たちは、枝であるという。(ローマ11・18)「根があなたがたを支えている」と言う。根に支えられなければ、養分を得ることは出来ないと言う。元来、ユダヤ人が「選民」としてつながっているはずであった。しかし、その枝が折りとられ、異邦人である野生のオリーブに接ぎ木された。

 選民イスラエルが救われる。これが「救済の論理」ではあるが、この基本論理は「接ぎ木論」へと修正される。だから私たちは、神の民イスラエルとなった。と言うことに対して、パウロは「思い上がってはならない」(ローマ11・20)と諫める言葉が語っている。大切なことは、根につながることである。

 先週、この教会と繋がりのあるMさんが91年と11ヶ月の生涯を閉じた。彼は若い時「受洗」した。けれども、人間関係で教会に躓き、教会から離れた。そしてあるクリスチャンの介護(ケア)を通して、もう一度真剣に「信仰」について考えておられたことが、その婦人とのやりとりの文章を読んで知ることが出来た。

 23節を読むと、「再び接ぎ木される」と言う言葉が出てくる。これは、文脈からはユダヤ人のことであると思われるが、正宗白鳥ではないが、もう一度神との繋がりに生きることを決心すれば、私たちは、生かされている。Mさんの前夜式・葬送式の準備を通してそのことを教えられた。とどまることをこちらが断ち切っても、再びとどまることを決心すればその恵みに生きることが出来るのである。