【招きは今も続く】
                 ローマ信徒への手紙10章14節〜21節

 昨日、私たちの恩師のM・F牧師の「偲ぶ会」に出席した。先生は私たちの結婚式の司式者で、連れ合いに洗礼を授けた牧師、そして私に牧師としてのイロハを教えてくれた人である。親しい者たちが食卓を囲みそれぞれが先生の思い出を語り合った。先生は教団の「戦責告白」を具現化するために被爆者老人ホーム「清鈴園」建設に携わる。それは一人の在日被爆者との出会いであった。当時牧しておられた広島南部教会を辞し、ボランティアとして事務局長として奮闘される。そしてその施設が出来ると、施設長にはならず、再び牧師として足利、杉並で働くと同時に赴任した教会幼稚園の園長として統合保育に携わり、今、私が理事長をしているともしび会の基礎をつくられた。

 パウロは、14節以下で、福音を知らされていたのに、受け入れなかった民について語っている。16節以下ではその人たちを「すべての人」と呼んでいる。パウロにとって、それは「選民」イスラエル人に他ならない。水曜日の聖研・祈祷会、木曜日の聖書に学ぶ会では、旧約聖書を読んでいる。読めば読むほど、神は忍耐強いお方であるとつくづく思う。あのノアの洪水後、神は「二度と滅ぼすことはしない」と人間に約束された。けれども人(イスラエルの民)は、神を裏切り続ける。裏切っても、裏切っても、神は民に救助者(士師)を送り、預言者を通してイスラエルの民が立ち返ることを望んでおられる。にも関わらず「民」は預言者の言葉を受け入れない。イザヤ書6章の召命の記事などもその一例である。特に9節以下の「頑迷預言」と言われている箇所は、そのことが顕著になっている。

 更に彼はイザヤ書53章1節を引用する。この箇所は、「苦難の僕」の歌として今なお読み継がれている。18節では詩篇19編5節が引用されている。詩篇では自然の中に神を見いだそうとしているが、ここでは、キリストのことが語られている。

 17節に戻る。すると「聞く」ということが語られている。すなわち信仰は「聞くことからはじまる」そしてそのことは、具体的には、キリストの言葉を聞くことであり、キリストについての言葉を聞くことである。これを「十字架」と「復活」であると言うが、ゲルト・タイセンは講演集「イエスとパウロ」でパウロはマルコ福音書が語るイエスを知っていた。と言う。

 すなわち、虐げられ、差別される人たちの傍らに立ち続け、その結果、律法の違反者として十字架に架けられたイエスが復活された。私たちが「キリスト」の言葉を聞くということは、福音書が語るイエスの言葉と振る舞いを学ぶことに他ならない。

 19節以下に気になる言葉が出てくる。それが「妬み」である。すなわち相手が羨ましいと思う心理。相手に対する愛情の裏返しの言葉が妬みである。パウロは、申命記32・21節を引用してそのことを語る。偶像を崇拝する民に対して、神は妬みを引き起こし、怒りを燃えたたせられる。

 神は異邦人を通して、イスラエル人たちに妬みを引き起こさせる。このことは、11章14節で再び語られている。愛するがゆえに「妬み」を引き起こす。そしてパウロは、再びイザヤ書65章1、2節を引用する。

 今日の宣教題を「招きは今も続く」とした。パウロは終末(イエスの来臨)の時は間近いと考えた。その時までに同胞がイエスを信じるに至ることを異邦人の使徒パウロは切望してやまないのである。私たちも終末(自分の死、主の来臨)時までこの福音を生きる者として歩み続けたい。