【切なる願い】
                       ローマ信徒への手紙11章11〜16節
 ルカによる福音書20章にある「ぶどう園と農夫」のたとえを読むと、ユダヤ人がイエスを受け入れなかったと記されている。やがて彼ら/彼女らは「キリスト殺し」の汚名を着せられ、徹底的に迫害され、ナチによって人間の尊厳を奪われ、ガス室で殺される。

 私たちはアンチセミティズム反ユダヤ主義の歴史を忘れてはならない。パウロは異邦人の使徒として宣教する役割を担う(使徒言行録13章45〜46節)ことになるが、9章3節にあるように彼は、同胞であるユダヤ人がイエスの福音を受け入れることを切に願っている。彼の同胞はパウロの言葉に耳を貸さないばかりか、拒否する。それに対して彼の教会のメンバー(異邦人たち)は、なぜ、彼らは福音を信じないのかと問う。

 この問いに対して、彼は疑問文のかたちで答える「ユダヤ人がつまずいたのは、倒れてしまったと言うことなのか」と、ある訳では「転んだのは、倒れるためなのですか」と訳している。同胞(イスラエル)が不信仰のゆえに滅びの中にあろうとも、神はその人を見捨てはしない。と彼は復活のイエスにダマスコで出会うという体験を通して知らされる。彼は、「終末」(主の来臨)は近いと考えていたので、頑なな同胞に語る前に「異邦人」に先ず福音を語る。そして「異邦人」たちは彼の語る言葉を福音として受け入れた。

  イスラエルの歴史は、不信仰な歴史である。聖書研究・祈祷会では旧約聖書を読んでいるが、民たちは、皆不信仰であることがわかる。そのことを「彼らの罪によって」異邦人が救われると言う。私たちは、知らねばならない、すなわち聖書が語る「罪」とは、歩むべき方向から逸れる状態であり、神との関係の破れであることを知らなくてはならない。

 ペトロは、イエスの「人間をとる漁師にしよう」という召命にこたえて、イエスの弟子となる。けれども「復活」のイエスに出会う前のペトロは優柔不断な人物として描かれている。神に「信従」するような信(仰)の力強さは、復活体験がなければ存在しない。まさにイエスの弟子たちは、その体験(出会い)を通してどのような苦難の中にあっても、主を忘れることはなかった。

 ここで戸惑う言葉が出てくる。それが「妬み」という言葉だ。妬みは、熱意、奮起と訳すことが出来る。すなわち、「異邦人」の歩み(信仰義認の道)を通して、同胞に対して奮起を促す。パウロはその人たちを通して「和解」の道が備えられていると考えている。世界の和解とは、(第二コリント5・18節以下、ローマ5・10〜11節)にも関わらずの和解に他ならない。すなわち、敵の時にすら、私たちを愛してくれた。これこそがパウロの赦しの体験であり、ダマスコ体験に他ならない。彼は、異邦人がどんなに彼を非難しようと、同胞がイエス・キリストによる信仰の道に導かれることを切に願ってやまない。

 パウロの願いとは、すべての人がキリストを信じることである。そのために、自分はたてられたという。彼は語る。選びから斥けられたイスラエルも共に救われることを彼は願っている。すなわち「根が聖であれば、枝もそうである。」切り取られた枝は、投げ捨てられるのではない。枝は、折りとられ、野生のオリーブである異邦人がまず救われる。ということをさらに彼は展開している。

 私たちは、このことを今日どのように受けとめるのか、イスラエルが救われるということは、イエス・キリストを受け入れることである。と彼は考えているが、そのことが宗教の排他性を生み出すことになりはしないか、「ユダヤ人」をキリストの福音を受け入れることの出来ない頑なな人とレッテルをはり、彼らを迫害してきた歴史を正当化することは許されない。