【少数者として】
                  ローマ信徒への手紙11章1〜14節
                       
 水曜日の聖研・祈祷会で「士師記」を読んでいる。6章からはギデオンが登場する。ミディアン人を中心とする軍事同盟(アマレク人・東方の諸民族)の前にイスラエルの民は無力であった。そこに登場するのがギデオンである。彼は、マナセ族の出身で、その中で一番年少であったと記されている。そのギデオン率いる300人の兵士で、ミディアン軍に勝利する。
 憲法「9条」を改憲(悪)しようとする動きに対して断固「否」と考えているわたしにとって、この箇所を「神が共にいてくれたので勝利した。」というメッセージとして汲み取りたい。

 11章は「選民イスラエル」(9〜11章)について纏めている。すなわち自分たちこそ選ばれた「選民」であるとイスラエルの民、ユダヤ人は考えている。けれどもパウロは10章4節で律法に対する「義」は目的を達したと語った。すなわち、「律法」に生きるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰に生きる時、私たちは神の恵みの中に生きることができる。と異邦人の使徒パウロは「同胞」に対して熱い思いで語るのである。彼は自分の出自について語った後、多くの旧約聖書を引用する。最初に「エリヤ物語」を通して語る。エリヤは、イスラエル最初の預言者で、どのような逆境の時でも徹底的に「わたしのほかに何ものをも神としてはならない」と言う主の戒めを忠実に守るように民に語る。けれども、北王国王アハブは彼の言葉を無視し、パートナーのイゼベルの持ち込んだ豊穣の神バアル(主)を信仰し、ヤーウエの戒めを無視、経済優先の政治を行う。その結果、富は権力者に集中し、貧富の差は拡大する。

 預言者エリヤは、豊穣の神バアルを信仰する指導者たちを激しく批判する。その結果いのちをつけ狙われ、逃亡を余儀なくされる。モーセが啓示を受けた神の山ホレブで彼もまた神の声を聞く。彼は、自分だけがバアルに膝をかがめない者であったと思っていたが、そのようなエリヤに向かって、ヤーウエは「しかし、わたしはイスラエルに7千人の人を残す。」すなわち、孤独の戦いをしているエリヤに対して、7千人の同士をお与えになられる。このようにして神(ヤーウエ)は徹底的にエリヤたちを支えられる。(列王記上19章8節以下)

 宣教(伝道)は教会の本分である。教会がイエスの福音を宣教することは当然である。けれども「選択」と「集中」と言う論理で宣教することに対して、私は「否」を言う。大切なことは、排除ではなく、受容である。

 先日、わたしは榛名にある「新生会」でともしび会の研修をした。そこで鈴木育三氏から、対話形式でボランティアについての講義を受けた。ある本が紹介された。それは加島祥三氏の『受け入れる』である。「受け入れるとは、それは両方の手のひらを開いた姿勢だ 共に生きよう、という共存のジェスチャーだ 受け入れない それは両手の拳を握りしめた姿勢だ 他者を閉め出し、入ってきたら戦う構えだ」神は、両手を大きく開いて、無条件でわたしたちを受け入れて下さった。

 今日私は「少数者」と言う宣教題をつけた。わたしたちは少数者である。それゆえに無力のように見える。けれども、それを卑下する必要はない。選ばれるとは、どのようなことなのか、パウロの言葉に耳を傾けてほしい。運動は、少数者では力が出ないかもしれない。けれどもマザーテレサは、大海の水は、一滴一滴の水によってできたという。

 「原発問題」をはじめとして、今、日本は岐路に立っている。その時、わたしたちは出る杭は打たれると尻込みをしていいはずがない。私たちはエリヤのように「主が共におられる」という信(仰)に立ち続けたいものである。