【良い知らせを伝える足は】
                  ローマ信徒への手紙10章14〜21節

 毎週金曜日は「原発再稼働反対」の抗議デモが首相官邸前などで行われている。その様子が先週はじめてテレビのニュース番組の中で放映された。老若男女を問わず、「312」以後、多くの国民は「原発」に対して「NO!」の意思表示をしている。ある被災者の言葉が私の心に突き刺さる。「私たちは避難民でしたが、今は難民です。」これが「311」「312後の日本の現実である。

 「選択」と「集中」という言葉によって、関西のある市は高齢者の様々な支援を見直し、次世代にその予算を特化するという。近い将来、医療・福祉制度は大幅に代わり、「自己責任」という言葉が当たり前のように使われることをわたしは危惧する。

 8月4日(土)に、かつしか人権ネットが主催する小出裕章さんのDVD上映会が教会を会場として行われる。カトリック雑誌「あけぼの」7月号に、ノートルダム女子学院理事長の鎌田 論珠(ろんじゅ)さんと小出裕章さんとの対談「未来の世代への責任」−放射能まみれの原子力発電所が掲載された。大変興味深く読んだ。ノンクリスチャンの小出さんが、ドイツのマルティン・ニーメラー牧師の生き方に言及した後、「おれは負けましたけど、こうやって生きてきたと言いたいです。」という彼の言葉に心を打たれた。

 「無責任の体系」の社会にあって、私たちも小出裕章さんのように「こうやって生きてきた」と自分の終末(いのちの終わり)の時、そしてこの世の終末によってイエスに会ったとき、このような言
葉を言うことが出来ればと願ってやまない。旧約聖書の「預言者」はそのような人たちである。

 パウロは、「異邦人」の使徒としてキリストを宣教した。9章で見たように「同胞」がイエスを「キリスト」と信じていないことが、彼にとっては大きな痛みとなる。そのような中で、彼の論敵たちは、容赦ない批判を彼に浴びせる。

 13節でヨエル書3章5節「しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように/シオンの山、エルサレムには逃れ場があり/主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」が引用され、14節bの反論となる。パウロは宣ベ伝える人がいなくてどうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣ベ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、何と美しいことか」と言うイザヤ書52章7節を引用する。苦難の中で、イスラエルの民は光明を見る。そしてその伝令者が伝える。やがて来る解放の時を語る。

 その時は未だ来てはいない。しかし、その時は間近いと言う。パウロにとって「良い知らせを伝える足」(姿)うるわしい知らせを伝える者とは、イエス・キリストを宣教する人である。ここで言われている「良い知らせを伝える足」は、特定の人を指しているのではなく、私たちもまた「この足」であると言う。

 ネット右翼が闊歩している。己の「安心立命」に終始するような社会情勢である。これが私たちの社会の現実。エレミヤ的に言えば、それは「罪」の結果と言うこと。

 パウロはダマスコで「劇的」な回心を経験する。しかしその前にステパノの殉教に立ち会っている。(使徒言行録7・54〜8・1)ステパノの姿勢は彼に衝撃を与えたに違いない。やがて、パウロもまた「殉教」の死を遂げたと伝えられている。すなわち、キリストに「信従」した。私たちも「時の徴」を見据え、どんな時代であろうと、良い知らせを伝える足として歩ませて下さいと主に祈りを共にしていこう。