【正しい道とは】
                   ローマ信徒への手紙10章1〜4節

 私は、6月11日〜13日大阪で行われた教団の第12回「部落解放全国会議」(「わたしたちの中の差別・被差別」〜来て、見て、知って、解放へ〜)に出席しました。基調講演、分科会、フィールドワークなどのプログラムを通して「今」大阪で何が起きているのか、を知ることが出来ました。
 
 フィールドワークでは、「大正」を選びました。大阪湾に面した埋め立て造成地で、かつては陸の孤島と呼ばれた湿地帯に民間の大阪紡績所が建てられます。そこに沖縄から多くの女性が女工として勤め、またその親類縁者が移住した場所です。今は、そこに工場や住宅が建ち並んでいますが、4人に一人は沖縄出身者です。その場所で宣教活動をしているのが「大正めぐみ教会」です。

 様々な「大正」と関係のある場所を案内された後、「在日ウチナーチュとしての私」と題して牧師が語られました。「韓流」ではないが、今は、表面的には沖縄は、ファッション、フェスティバル、フードが受け入れられ、差別とは縁遠いように思われているが、「琉球処分」によって日本に「同化」することを強いられ、皇民化教育が推進され、戦前は本土(ヤマト)の捨て石、戦後は安保の犠牲となっていること、すなわち、日本の国土の0.6% 74.8%の米軍基地が沖縄にあると言う現実から目を逸らしてはなりません。また女性役員は「自分史」を通して語ってくれました。最後に牧師の、理解されるよりも理解すること「いちゃりば兄弟」と言う言葉が大変印象的な言葉でした。フィールドワークの目的は、出会いであると思います。人は、出会いによって変えられます。

 使徒言行録には、パウロの回心がルカの筆によって「劇的」に描かれています。(9・1〜19、22・6〜16、26・12〜18)彼自身は、フィリピ3章5〜6節、ガラテヤ1・13〜17節で語っています。ガラテヤ3章13節に「木に掛けられた者は皆呪われている」、これは申命記21章23節にある言葉です。「十字架」は嘗てのパウロには「つまづき」でした。

 パウロは「熱心」(出エジプト20、5)という単語で、民数記・列王記に登場するピネハス(25・11、13)やエリヤ(19、10、14)と言う人物を想像していると思われます。けれども、今熱い祈りをもって語りかけている同胞は「正しい認識」を持っていないと言います。

 すなわち、「神の義を知らず、自分の義を求めようとして…」と言う言葉です。そして律法は役割を終えたと言います。その言葉が「目標」「終わり」「到達点」とも訳せる言葉です。ガラテヤ3章21節以下に「養育係」という単語が出てきます。これは、奴隷の仕事です。経済的に、貧しい人たちだけではありませんが、差別されていた人たちです。主な仕事は躾です。当時躾は鞭を使って行われました。そのような躾を行う「養育係」は不可欠な存在でした。パウロはキリスト以前には、この「養育係」を通して、私たちは神と繋がっていたが、キリストによって、私たちは「養育係」を必要としなくなった、といいます。

 正しい道とは、このキリストと出会うことによって得られる道です。植民地主義と言う言葉があります。近代日本は、まず「琉球」を植民地とします。すなわち「琉球処分」です。植民地政策を推し進めるものは、自分たちの方が優れている、勝っている、という考え方であり、ヤマトは琉球人に「同化」することを強いてきました。その図式の中で、差別が生まれます。
 
 主にある正しい道とは、福音によって生きることです。福音によって生きるとは、イエスに倣うものとなるのです。「罪」は、道を外れることです。すなわち、自分の物差しを絶対化しそれを強いることです。私たちの神に対する「熱心」さが問われています。