【バトンタッチ】
 子どもの日・花の日合同礼拝メッセージ           
                        サムエル記上1・19〜28・Uテモテ1・3〜7

 旧約聖書の時代、結婚しているのに子どもが与えられないと言うことは神さまの祝福を受けていないことを意味していました。サムエルの母ハンナもアブラハムのパートナーサラのように二人の間には子どもがいません。ある時、ハンナがあまりにも長く祈っているので、祭司エリは彼女に声をかけました。彼の目には、口をふるわせて声も出さずに祈っている姿は、酒に酔っていると見えたからです。彼女は答えます。「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎだしておりました」(サムエル上1・12〜18)

 彼女の深い悩みを神さまは聞きとどけて下さり、生まれたのがサムエルです。彼は、母ハンナのような篤い信仰を持ち神さまに仕える者となります。

 新約聖書のテモテへの手紙は、使徒パウロが、信仰によるまことの子テモテ(Tテモテ1・2、Uテモテ1・2)に宛てた手紙です。彼は祖母ロイス、母エウニケからこの信仰を受け継ぎます。(Uテモテ1・5)本来信仰は、私と神さまとの垂直な関係によって、成り立つものです。けれども、サムエルもテモテもその信仰を母から受け継いだということがわかります。

 本日の「主の食卓」の台はお花でいっぱいです。イエス様は言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく、子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10・14b〜15)ここで言われている子どもは「小さくされた者」(私たちの社会が)たちの象徴であると共に、未就学児です。信仰は、理性によっては与えられません。

 聖書を一生懸命に知識として読んでも、教養は深まるかもわかりませんが、信仰は与えられません。精神科の医師でカトリックの作家、加賀乙彦は死刑囚正田昭から、大きなインパクトを与えられて聖書を読み、門脇佳吉神父を通してカトリックの教義を受け入れてカトリック教徒になります。私が十代後半か、二十代前半に読んだ木誠一との「対談」からは、想像すら出来ませんでした。不思議な神さまの導きを感じざるを得ません。

 彼は東京拘置所の医務官として、多くの死刑囚と出会います。そして死刑は憲法に抵触する「残酷刑」であると考えるようになり「死刑廃止論者」となります。拘禁状態が何年も続くと人は精神に支障をきたします。

 加賀乙彦の信仰は純粋で単純そのものです。私たちには、信仰が与えられました。この信仰を「受け継ぐ」場が教会です。サムエル、テモテのように親(母・父)の信仰が子どもへと受け継がれると言うことは、難しいことです。

 今日は、子どもと大人が神さまに呼び集められて礼拝を献げています。私たちは、この時、聖書の言葉に耳を傾けましょう。そして<ののはな>の子どもたち一人一人が、神さまとのつながり、子どもさんびか115番の詩にあるように、「神さまの愛を、そっとあらわす こども」となるように祈りましょう。信仰が親から子へとバトンタッチされることを神さまは望んでおられます。みんなで神さまを讃美し、神さまの恵みを心から感じましょう。