【つまづきの石】
                 
                     ローマ信徒への手紙9章30〜33節

  あの「311」から、1年三ヶ月が過ぎようとしています。政府は事故が起きた福島第T原発の原子炉が「冷温停止」状態であると早々と「宣言」しましたが、未だに4号機をはじめとする原子炉は不安定なままです。
 
 そのような中で大飯原発の再稼働が行われようとしています。日本キリスト教団が、脱原発を趣旨とする3月27日に議長声明を出しました。現執行部に対して私は、批判的な立場ですが、このことに関して一定の評価をしたいと思います。
 
 パウロは、9章前半から「神の自由な選び】について語っています。すなわち、本来は選ばれたはずの民が選ばれず、「異邦」人が先に選ばれたということの意味について語ります。(30〜31節)ここで言う「異邦人」は、キリストを信じる「「異邦人」です。パウロの使命は使徒として「異邦人」に福音を宣べ伝えることでした。(ローマ1章13〜14節)彼の宣教の中心は「十字架」と「復活」です。(1コリント1・18〜25節)1コリント信徒への手紙1章23〜24節の言葉に注目して下さい。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」ここに「つまづき」という言葉が出てきます。

 つまづきとは、一般には「挫折」を意味します。「挫折」を経験していない人は少ないと思います。私たちは、「挫折」を通して成長し、新たな第一歩を歩むことが出来ます。パウロはここで旧約聖書のイザヤ28章16節を引用しています。この背景には、「シリア・エフライム戦争」があります。すなわち、北イスラエル王国は、アッシリアにつくのか、それとも反アッシリア同盟(エジプト)に組みするべきか、と言う選択に迫られ、北イスラエル王国は、動揺します。(イザヤ書7章1〜2)なぜそのような状態に置かれたのか、イザヤはそれを神さまに対する「背信」行為に他ならないと語っています。すなわち、神さまはアッシリア帝国との戦争を通して、そのことに気づくように言われます。けれども、神との繋がりが弱くなっていた北イスラエルの民は、そのことに気づかず「破滅」していきます。

 神さまとのつながりを蔑ろにし、忘れてしまった指導者たちがそこにいます。この試みの「石」は主を信頼する者たちには、恐れずに足らぬもののはずです。

 新約聖書(マタイ11・6、マルコ12章10〜11)では、「石」は大きな障害であると同時に、「キリスト」を意味しています。キリストを信じる者にとっては、この石が新しいいのちをもたらします。

 あの「311」「312」の出来事は、つまずきの石に他なりません。けれども、この「苦難」の出来事を通して、私たちは知らねばならないのです。

 すなわち、つまづきの石は、私たちにとってこれからの「道標」となると言うことを、1コリント1章18〜25節で語るパウロの言葉を忘れてはなりません。このつまづきの石は「十字架」であります。パウロが語る「十字架」は、ドグマ(教義)ではありません。後の教会は、それをドグマとして形づくっていきましたが、パウロにとって、それはつまづきの石であり、その石を通してしか私たちは新しいいのちを育む希望を持つことは出来ないのです。