【選びは人智を超える】

               ローマ信徒への手紙9章11〜13節
 
 パウロは「族長史」を通して語っていますが、それはヤコブの「優位性」を語っているわけではありません。6節で「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人とはならない」と言っているからです。このエサウとヤコブの双子の誕生にまつわるエピソードは、創世記25章23節に書かれています。

 すなわち「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の中で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり兄が弟に仕えるようになる」

 イサクがリベカと結婚したのが、40歳の時でした。20年間二人の間には、子どもが与えられませんでした。漸く誕生したのが、エサウとヤコブの双子です。この物語を読む時、戸惑うのは、なぜ、ずる賢い弟ヤコブが母親リベカと共謀して、エサウの長子の特権と祝福を、だまし取ったのに許されたのか、と言うことです。

 パウロはこの問いに対して、マラキ1章2〜3節を引用します。このマラキ書が書かれた時代背景は、エルサレム神殿は、バビロニアによって破壊されます。そして539年にペルシャがバビロニアを滅ぼすまで、彼らは苦難を背負い続けます。捕囚後、イスラエルの一部がユダとエルサレムに帰還します。けれども、預言者ハガイとゼカリアが希望の日を預言したその日は、訪れる気配すら感じることが出来ません。神殿を建立し、犠牲を献げても目に見えるようなしるしは与えられませんでした。エズラ、ネヘミヤの時代になってもその状況は変化しません。ユダの人々はペルシャ帝国の支配下にあり、重税に苦しんでいました。干ばつといなごの大群による飢饉に見まわれます。ユダに住む人々は、このままヤーウェを礼拝していてそれで良いのか、と言う疑問に駆られています。そのような時代の中で、小国ユダを神さまは、祝福されるというメッセージをマラキは語ります。

 ヤコブに象徴されるのは、「小ささ」です。エサウはエドム人であり、イドマヤ人となります。新約に登場するヘロデ王の父親は、イドマヤ人(彼らも差別されています)です。ここで私たちは、再び「ヤコブ」について考えることにします。

 彼は、狡猾で鼻持ちならない自己顕示欲の塊のような人物です。けれども、聖書は語ります。エサウとヤコブの物語は、単に双子の兄と弟の確執の物語ではありません。ここには「神の自由な選び」が語られています。この選びについては、関連としてエフェソ1章11、3章11を読んでみましょう。 ここには、あらかじめということ、すなわち、「予定」と言うことが語られます。

 パウロの同胞であるユダヤ人の人たちは、「行いによる義」を選びに対する第1条件として考えています。それに対してローマ信徒への3章21節のことばを思い起こして下さい。「人が義とされるのは、行いよってではない。信仰による。」続けて9章11〜12節を読みます。

 この「ヤコブ」に象徴されるのは「小ささ」と申しました。大が小を呑み込むのではなく、まさに小が大を飲み込むのです。この「選び」(申命記7章6〜7節)は恵みです。

 優越感は、差別を産みだし、助長します。自分を自己絶対化するとき、私たちは無意識に相手を排除しています。選びは人智を超えています。私たちは、知らねばなりません。ヤコブの神はエサウの神でもあると言う事を、そしてどんな時でも私たちと共にいて下さる神であると言う事を、この恵みを感謝しつつ、聖書の選びを排除の論理ではなく、恵みの論理として受け入れ、常に自己を見つめ、自己絶対化に陥ることがないように祈りましょう。