【誰が選ばれるのか】

              ローマ信徒への手紙9章14〜18節
 
 マタイ福音書20章には「ぶどう園の労働者」の譬え話があります。何時に来ても同じ報酬と言う内容です。このイエスの言葉が、ヨーロッパの社会保障の土台になっていると言われます。働きたくても働けない人(青年・中高年)たちが大勢います。生活保護受給者は、300万人を超えています。努力する人だけが報われる社会を私たちは健全な社会だと思うかも知れませんが、様々な事情で失職し、働けない人、病気などの理由で生計を立てることが出来ない人、これらの人々を支え合う仕組みを私たちは大切にしていかねばなりません。

 先週は「神の自由な選び」を13節の「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というマラキ書の言葉を通して、ヤコブが「小さくされた者」を象徴していることを学び合いました。イスラエルの民をなぜ、神がお選びになられたのかを申命記7章6〜7節の言葉で確認しました。

 今日の箇所では、モーセが登場します。映画「十戒」は解放者モーセを主人公にしています。出エジプト記33章19節には「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言う言葉が出てきます。ある訳ではこのように訳されています。「わたしは自分が共感してしまう者の苦しみを共感し、心動いてしまう者の痛みに心を動かす」(33・19)前後しますが、32章には「金の子牛」の物語があります。
 
 神さまから大切な二枚の契約が記されている板がシナイ山でモーセに授けられましたが、指導者モーセが不在であることに民は動揺し、不安を感じ、兄アロンに「金の子牛」を作ってくれるように懇願します。「金の子牛」は偶像崇拝であり、エジプトへの回帰を意味しています。こともあろうに、兄アロンが民の願いを受け入れたのです。モーセにとってこの彼の行動は信じがたいものであったに違いありません。その結果、モーセは怒ります。(32・27)その後、彼は神さまに祈ります。その祈っていた時に与えられた言葉が、出エジプト33章19節の言葉です。

 パウロのこの言葉の背後には、敵対者への痛烈な批判があると言われます。9章3節を読むと、異邦人の使徒として建てられたパウロの苦悩がわかります。なぜ、イスラエル人は選ばれた民であるのに、イエス・キリストを信じることが出来ないのか、彼が説く「人は行いによって義とされるのではなく信仰によって義とされる」ということが彼の同胞には理解されません。

 行いとは、業績、功績主義と捕らえてかまいません。彼はしばしば競争について語っています。(Tコリント9章24節他)けれども彼は、ダマスコで十字架のイエスに出会うことで、業績主義、功績主義から解放され、使徒として生きるのです。

 頑なさと言う言葉は、神から離れることを象徴しています。ファラオだけが頑ななのではありません。イスラエルの民もパウロの同胞も頑なです。

 ここで語られているメッセージは恵みです。神の憐れみは人の思いを超えているのです。神が憐れまれたのは「ヤコブ」そしてぶどう園の労働者に象徴される「小さくされた」人々です。イスラエルの民(選民)は、現在ではむしろ、暴力に晒されているパレスチナの民であり、仕事にあぶれて漸く夕方仕事につけた人です(マタイ20・8〜9)。不公平と言えば不公平です。不条理だと言えば不条理です。

 人間の物差しで測ることは出来ないのです。けれどもそのような人たちから、福音はもたらされます。誰が選ばれるのか、その物差しは私たちの常識を覆します。このメッセージをどのように受けとめますか?あなたは…