【もうすぐ来られる】                                               イザヤ59・12〜20 マタイ13・53〜58

 歌舞伎役者の中村勘三郎さんが急性呼吸窮迫症候群で、5日に亡くなられた。57才であった。金曜日のフジテレビで、初期のガンであるので、心配ないと言われていたが、実際はリンパに転移していること、そのような状況の中でもひたむきに生きる姿が語られていた。

 型破りの演出と芸で彼は聴衆を魅了したが、そこにはたゆみない努力があったことを、追悼番組で知ることが出来た。その中で、考えさせられた言葉があった。それは無着成恭さんが子ども電話相談室で子どもが「型破り」と「型無し」は何が違うの?と言う質問に対して成恭さんいわく、「型のある人が型を破ることを型破りといい、型のない人が型を破ることを型無しという」という言葉で、あの類い希なる彼の芸が支えられたと言うことを知った。

 歌舞伎には、イエスは演じられてはいないが、能の中では、能楽師観生清和氏が江戸時代行われた「キリスタン能」のことがキリスト教の雑誌「ミニストリー」の中でインタビューとして掲載されていた。イエスをどのように語るのか、という点で大変ユニークなのは、カトリック神父米田彰男さんが書いた『寅さんとイエス』である。もしイエスが寅さんのように愉快でおもしろい人物であるなら、という手法で渥美清演じる「フーテンの寅さん」の映画を分析し、イエスの生きざまと重ね合わせて、イエスを語っている。

 マタイ福音書13章53節以下には、イエスの出自が取りあげられている。そこで語られているイエス観は、ある意味、神の子として語られているイエス観とは、異なる。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」と記されている。
自分の故郷ではあまり奇跡はなさらなかった。と結ばれている。イエスが語る「神の国」の福音に関する言葉、そして数々の奇跡は彼の出自を知るものにとっては、驚きと躓きでしかなかった。イエスとは誰か、この問いが私たちに投げかけられている。

 聖書は、イエスは神のひとり子であると告げている。しかも、そのイエスの誕生は、神の導き(聖霊による)であるのだが、当時の人々はそのことを知らず、臨月のマリアとそのパートナーヨセフを邪険に扱う。その結果、イエスは家畜小屋で生まれることになる。赤ん坊を糞尿の匂い立ちこめる家畜小屋で生まなければならなかった二人の苦悩は計り知れない。

 人間としてどん底を体験したパウロは、フィリピ信徒への手紙2章5〜11節で<キリスト賛歌>としてそのことの意味を語り直している。クリスマスそれは、「救い主」の誕生を祝うためのものだ。世界で最初のクリスマス物語は、ロマンチックとはほど遠い。けれども、その誕生から十字架の死に至るまでの歩みが、私たちを支え、勇気づけ、絶望から希望へと導く。その希望こそが復活である。

 イザヤ書59章は、捕囚から帰還した民の不信仰が語られ、その罪が糾弾される。そしてそのような罪を贖う方が、シオンから来ることが宣言される。私たちは、アドベントのこの時、ローソク
に一本一本灯される炎を通して、主の降誕を心から喜ぶために、準備をするのである。「もうずく来られる主」を祝うために。