【待ち望むということ】                                                    イザヤ6・25〜34 マタイ24・36〜44                        
                                       
 昨日、私はかつしか人権ネット主催のドキュメンタリー映画「主権在民」とその映画に登場する武藤類子さんの「福島を語る」という講演を聞いた。16日に行われる衆議院選挙では、原発維持、脱原発・卒原発ということが選挙の一つの争点となるといわれている。その時、私たちはどこに立ってものを考えるのかが、問われることになる。当事者の立場でものを観る。すなわち、被害者の視点で考える想像力を身につけなければならないと、思う。

 今日は、私たちは二つの聖書の箇所が与えられた。一方は、旧約聖書のイザヤ書2章1〜5節、もう一つは新約聖書のマタイによる福音書24章36〜44節である。ここには、「終末」が語られている。けれども、この終末は終わりの始まりであることを知らなくてはならない。最後の4〜5節の言葉は、国連のプレートに刻みつけられている。「剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする」戦争の道具は平和の道具(農具)となる。「終わりの日には」と言う。けれども、残念ながらその日は未だ来てはいない。

 先週の金曜日にパレスチナが国家として国連に認められたと報道されていた。いつの日か、M・キングがいうように「いつの日か、同じテーブルで食事が出来る」日が来ることを願って止まない。けれども、その日は未だ来てはいない。

 新約聖書のマタイ24章36節には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも、子も知らない。」とある。ここで私たちが注意しなくてはならないことがある。それが「目をさましていなさい」という言葉である。それはなぜか、といえばいつ主人が帰ってきても狼狽えることなく、その日を待ち望めという。待ち望むと言うことは、忍耐が伴う。今、私たちは講壇にあるローソクの一本に火を灯した。これから今日を入れて4週間この日を待ち望む者としていきたいと思う。

 キリスト教では、アドベントは大切な時である。私たちは、「待ち望みなさい」というイエスの言葉を聞いた。いつ来るかわからないから、いつでも準備を整えていなくてはならない。

 福島第一原発事故で故郷を奪われた人たちが大勢いる。けれども、ニュースで報道しなくなると、私たちの記憶からあの「3.11」をそして【3.12】の出来事は忘れさられてしまう。その意味で私たちは「相手の立場になって聞く」姿勢が大切となる。「福島からあなへ」という本がある。その中にこんな詩がある。「みなさん、福島はとても美しい所です。東に紺碧の太平洋を望む浜通り、桃、梨・りんごと、くだものの宝庫、中通り。猪苗代湖と磐梯山のまわりには 黄金色の初穂が垂れる会津平野。そのむこうを深い山々がふちどっています。山は青く、木は清らかな私たちの故郷です。…」その自然が汚染された。

 聖書は、終末を語る。けれども、その終末は終わりの始まりであり、再生であり、希望である。クリスマスは、希望のメッセージ。(イザヤ9・1〜6)どん底に喘いでいた民はイエス・キリストの誕生に希望を見いだした。そのことが星の導かれた東方から来た占星術師の物語であり、野宿しながら命がけで羊を見守る羊飼いに他ならない。アドベントは、クリスマスを待ち望む時である。ローソクに火が一本一本灯される毎に、私たちは主を迎える準備をしよう。「目をさましていなさい」この言葉をしっかりと受けとめ、「待降節」の時を過ごしたい。