永眠者記念礼拝 メッセージ
                【信仰によって生きる】
                      Tテサロニケ4章13〜18節
                                         
 人は死に向かって生きている。けれども日常生活の中では、「死に向かって生きている」ことを自覚することはまずない。私たちは、愛する者を失ったとき、そして自分が重病に罹り医師から治療の見込みがないことを「宣告」された時に「自分の死について考える」。

 最期まで自分らしく生きるために、ある人は延命治療を望み、ある人は平穏死を望む。著「平穏死」10の条件によれば、 @平穏死でない現実を知ろう A看取りの実績がある在宅医を探そう B勇気を出して葬儀屋さんと話してみよう C平穏死させてくれる施設を選ぼう D年金が多い人こそ、リビングウィル(生前の遺言を表明しよう。E転倒→骨折→寝たきりを予防しよう F救急車を呼ぶ意味を考えよう G脱水は友、胸水・腹水を安易に抜いてはいけない H24時間ルールを誤解するな!自宅で死んでも警察沙汰にはならない!I緩和医療の恩恵にあずかろう。

 そのためには年に一回ぐらいは「自分の死」について(ある人は誕生日に)考える。また以前お配りした「エンデングノート」にリビングウィルをはじめとして、自分がどのような最期を迎えたいのか、書いておく。

 宗教改革者ルターの時代は、25歳で人はこの世の旅路を終えたと言われている。その原因は乳幼児の死亡率が極めて高かったこと、そしてペストなどの伝染病が考えられる。今は、男女とも平均寿命が上がり、男性79.29歳、女性86.05歳(2012年9月発表)である。

 今日はこの教会から天に召された兄弟姉妹の在りし日の写真が講壇正面に飾られている。永眠者名簿によると30名が召されたことになる。小学校に入学前に召された人、突然召された人、闘病の末召された人、天寿を全うして召された人がいる。

 讃美歌385番「花彩る春は」の歌詞はヘブル11章13節のみ言葉によって作られたこの讃美歌には、「私たちがつまずく時、疑い悩みの中にある時、すでに天に召された信仰の先輩の眼差しが私たちを守り導いてくれる。お前は一人ではない。お前と同じ悩みを私も悩んだ。お前と同じように私もつまずいた。そして今、神のみもとにあって、お前を見つめている、祈れ、歩み続けろと、語りかけてくれる。私たちは一人でいるのではない。神に招かれた聖徒たちの群れの歩みを歩んでいる。」と歌っている。

 これらの天上におられる兄弟姉妹と共に聖徒の日・永眠者記念礼拝が献げられている。Tテサロニケの信徒への手紙は「主の来臨」の時が近いと考えられていた。そのため、その日一日を精一杯生き、いつ主が来られても狼狽えることなく、恵みの時としてその日を迎えるようにと、パウロは願いこの書を記している。4章13節以下には、既に死んでしまった人たちはどうなるのか、と言うテサロニケ教会の人たちに向かって復活の信仰に生きるとは、どのようなことなのか、パウロは言う「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(14節)パウロはここで「眠りについた人たち」と言う言葉が3回出てくる。使徒7・60にはステパノの殉教(死)を「眠りについた」と表現している。

 パウロが語る「既に眠りについた人たち」とは、教会のメンバーと言うことが前提になっている。すなわち復活の信仰に生きる人たちである。私たちはイエスの十字架と復活、そして再臨の中間時を生きている。主の来臨とそして「自分の死」が訪れるその日まで私たちは「死は終わりではない」と言う復活の「信仰に生きる者」として歩みたい。