【私たちの責任】
ローマ信徒への手紙13章1〜7節
                                     
 先週の火曜日に、「東京同宗連」の今年度の部落解放基礎講座が行われた。講師は、広島平和文化センター理事長のスティーブン・リーバー氏であった。彼の父親はあの洞爺丸事故で、沈没の恐怖に怯える乗客の気持を和らげる努力をし、いよいよ沈没が避けられなくなった時、女性や子どもたちに救命胴衣をつけさせ、最後まで励ましつつ、ストーン宣教師と共に生涯を終えた。

 まさに「人がその友のために命を捨てること、これより大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)この父の生き方が、彼の平和運動の原点である。という。

 リーバー氏は、「戦争文化」と「平和文化」という言葉を使って、差別の問題について語られた。
 彼はいう。戦争文化は、@ 対立が出来たら、競争原理で強い者が勝つ文化である。A 自分の事しか考えない 武力による平和を維持する文化である。これに対して、平和文化は、@対立が出来たら、あくまでも話し合いで解決し、競争原理を持ち込まない。A自分のことだけではなく、相手のことも共生を考える。B 武力での解決は取らない。と語られた。

 また、この教会でも昨年のおまつり広場で支援した会津放射能を守る会の代表の片岡輝美さんが、福島の現状と特に子どもたちがおかれている環境について講師とのパネルディスカッションが行われた。最後にリーバー氏が差別には、怒りと痛みがある。と纏められた。良い学びであった。

 この差別には、怒りと痛みがある。と言う言葉を聞き、私は一つの聖書の箇所を思い起こした。それはマルコ福音書では、1章41節以下新共同訳では、深く憐れんでとあるところである。ある聖書学者の説明によると、「写本」には、憐れんでと言う言葉と怒ってと言う言葉がある。と言う。私はこの怒りは、差別に対する怒りであると読む。すなわち、差別されている重い皮膚病の人の境遇を心に留め、その人の怒りを受けてこのような振る舞いをされたとするならば、この怒りには痛みが伴うことになる。柔和なイエス様が怒るはずはない。と考え、怒りと言う言葉の「写本」は採用されず、憐れみが採用された。けれども、怒りも憐れみもその人の痛みが土台にあると考えれば、イエスが怒られても不思議ではない。
 差別には怒りと痛みが伴う。と言う言葉は非常に示唆的な言葉であると言える。

 さて、私たちはこの約1ヶ月間にわたって、13章1ー7節を読んだ。神の下でなければ権威ではない。イエスご自身「権威」に対して黙否というかたちで抵抗された。大祭司カィヤファ・ピラトなどの裁判で、預言者もまた「強いられる恵み」(神からの召命)によって立てられたゆえに権威に対して、迎合するようなことはなかつた。

 聖書は王の存在を積極的には、肯定してはいない。そのようなことを踏まえて「神の下でなければ権威ではない」ということについて学んだ。国家が剣を持つことをパウロは肯定する。官憲には、そのようなことがゆるされている。

 最後の所は、税の問題が取りあげられる。先週サムエル記上8章を読んだ。またイエスの有名な言葉がある。(マルコ福音書12章13〜16節)ここでは、二重の税金に苦しむ民衆がいる。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われた。このことをも併せて考えてみたい。

 税金には、直接税と間接税がある。消費税などは間接税である。ルカ福音書19章には、「徴税人」ザアカイの物語がある。
 彼は、ローマの手先と思われ、差別された。金持ちであったが、孤独であった。税を取り立てるものは、決して好意的にはローマの傀儡政権(植民地)にあったユダヤ社会には良くは思われていなかった、

 パウロは、この税を納めることを私たちの義務である。と言っている。
衆議院が16日に解散した。何が選挙の争点になるのか、第三局といわれる人たちは、減税を強く訴え、国民の支持を得ようとしている。

 消費税が、5%から8%、10%になろうとしている。高負担よりも低負担にこしたことはないと言うのが、国民感情と言える。問題は、税が何に使われるかである。

 私たちはチエックする必要がある。そしてもしも、その「税」が弱いものを蔑ろにして、国家のために使われるとすれば「否」を言わねばならない。

 戦争文化と平和文化の違いは、一人一人を大切にするか、否かということである。
私たちは、神と正義と平和を語る責任がある。そのことを自覚しつつ、共にこの世に遣わされていることの意味を知らなくてはならない。