【神の定めに生きる】
ローマ信徒への手紙13章1節〜7節
                                        
 雨宮栄一先生のキリストの証人『井上良雄』が出版された。なぜ、小林秀雄を凌ぐと言われた文芸評論家が、その筆を折り神学者カールバルトに魅せられたのか、彼が私たちに残した課題とは何か、前半の文芸評論家としての井上良雄についての考察は、文学の素養が足りない私には、歯が立たなかったが、後半のキリスト者としてどのように生き、発言したのかは大いに教えられ、啓発された。すでに先生が書かれた賀川豊彦・植村正久・高倉徳太郎評伝よりも、この近著を最も興味深く読んでいる。先生はドイツ「告白教会」の研究者で、特に「バルメン神学宣言」を研究されている。井上氏がバルトの「和解論」を中断して、なぜ『ブルームハルト父子伝』を書かなければならなかったのか、「井上良雄」がキリスト者として何を大切にして生きたのか、没後10年の節目に、今の教団の在り方をこの著書を通して考えることが出来る。

 パウロはここで「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」と言っているが、私たちは知らねばならない。すなわち権威は、神の下にあるのでなければ、それは権威とはいえない。水曜日の聖書研究・祈祷会では「士師記」を読んでいる。その17章6節に「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行った。」また18章1節の前半には、「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」と記されている。王の存在を民衆は熱望した。絶対的な指導者を願ったのである。けれども最後の「士師」で呼ばれたサムエルはサムエル記上の8章で民が王を懇願することに対して疑義を述べている(8節〜12節)ソロモン死後、王国は南北に別れ、北イスラエル王国がアッシリアに、そのアッシリアを滅ぼした新生バビロニアによって、南ユダ王国も滅び、主に王・官僚など支配層はバビロンに「捕囚」される。この南北の激動期を信仰に生き抜いたのが、預言者である。彼らに共通するのは自ら進んで預言者となったのではない。ある人はこのことを「強いられた恵み」と呼ぶ。今、エレミヤ書を木曜日の聖書に学ぶ会で読んでいる。彼は「新しい契約」の思想によって新しい人格宗教の基礎を置き,新約時代への方向づけをした預言者である。

 パウロは預言者のように常に妥協を許さない人ではないことが、13章でわかるが、私は神の下にない権威に対しては、彼もまた預言者同様の生を全うしたと信じる。3節を読むと、特に4節には「権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者には怒りを持って報いるのです。」と言う言葉に出会う。この剣を持つ者は「官憲」である。

 今教団紛争における機動隊導入は間違ってはいなかった。と言う考え方が多数派を占めているが、それが正しいかは「歴史の主」に委ねなければならない。少なくとも、自己を正当化し、他者を排除するような論理には危うさがあると私は思う。

 今日わたしは、「神の定めに生きる」と言う宣教題でこの箇所を読んだ。神の定めに生きるとは、神の御心に生きることではなかろうか。預言者は孤独である。誰も彼らの言葉には耳を傾けず、まやかしの宗教者の言葉に耳を傾けてしまった。私たちはそのようなことが嘗てあった歴史を真摯に受け止め、「見張り番」(エゼキエル書33章)として役割を怠ってしまったと言う反省から生まれた教団「戦争責任告白」を忘れてはならない。内外共に内向きになっている世界だからこそ、自分の安心立命に生きるのではなく、神が求められる正義と公平の道を歩みたいと願っている。