【ここにはおられない】
                  マタイ福音書28:1〜10
 
 イエスの葬られた墓にやって来た女性たちに天使は告げます。「ここにはおられない」この言葉を失望落胆して、失意のどん底にある女性の弟子
(マタイ28・1)たちはこの言葉をどのように受けとめたのでしょうか。

 マタイ福音書は、十字架で死んだイエスの亡骸をおさめていた墓には、イエスは居られませんでした。恐れている彼女らに天使は言います。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はここにはおられない。かねて言われたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから急いで行って弟子たちに告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かにあなたがたに伝えました。」この天使の言葉は、12弟子たちと最後の食事(過越・最後の晩餐)をした後、ペトロの離反予告をしたときに語られています。彼女らは、「空の墓」の証人であり、11人の弟子たちにこの喜びを伝える証人です。「恐れることはない。行って、わたしたちの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」とイエスご自身も言われたと記されています。

 「ここにはおられない」イエスは、先にガリラヤに行っておられたのです(28・16)彼の「神の国」の福音宣教(言葉と実践)は、バプテスマのヨハネが捕らえられた後、はじめられます。ヨハネは、旧約聖書に登場する最初の預言者エリアを想像させる人物です。どんな状況の中でも、神との繋がりを生き抜いた人です。
 
 マタイは、イエスがヨハネよりも力ある方であると、ヨハネ自身の言葉を通して語っています。(マタイ3・14)そして彼は、ガリラヤで神の国の福音を宣教するのです。当時の常識では、律法を遵守することができないものは、神の国のキップを手に入れる資格はないと、考えられていました。すなわち、徴税人、先天的障がい者、心を病んでいる人、重い皮膚病に罹っている人たち、遊女、卑賎な職業でしか生きていけない人たちは、皆、「罪人」というレッテルを貼られていたのです。そのような人たちに向かって、イエスはあなたがたが、「地の塩」「世の光」である。と言われたのです。そしてそのような境遇の中にある人たちの中から、弟子を選ばれます。民衆もこのイエスの宣教に大きな期待を抱き、来るべき「メシア」とイエスを考える様になっていきます。

 けれども、イエスはこの世の王ではありませんでした。力によって人々を支配するような世界を作ろうとはなさらなかったのです。「神の国は近づいた」(国とはある空間ではなく、神が支配する時です)彼が語る神の国は、いちばん小さくされた者が、大切にされる価値観が共有される「共同体」です。すなわち、ガリラヤとは、そのような共同体を象徴しているのです。絶望している人たちが立ち上がることが出来る支え合いの共同体こそ、教会の真の姿です。ガリラヤにイエスは居られるのです。現在のガリラヤとは、どこなのでしょうか。わたしたちは、この「朝」、問われています。