【引き離すことは出来ない】
                                  ローマ信徒への手紙8:35〜39

 「公民権運動」のリーダーであったM・Lキング牧師は彼らの運動が理解され、支持されてからも「公権力」によって逮捕されています。自分の信念を曲げずに立ちはだかる壁がどんなに高かろうと、それを乗り越えるエネルギーは並大抵のことではありません。預言者にはそのような力強さがあります。彼らは、どんなに迫害・弾圧されても神の言葉に生きる「孤高」の人々です。

 パウロの生涯を考える時、あのダマスコ体験(出会い)がなかったら、180度違う人生を歩んでいたに違いないと、私は確信します。人間的に考えれば、「キリスト」に出会うことがなければ、パウロは波瀾万丈と言えるような生涯を送ることなく、ガマリエル門下生としてユダヤ教のラビとして名声を博していたと思われます。

 ローマ信徒への手紙8章35節〜39節は、今までのまとめ(1〜8章)と考えて構いません。1章18節から、人間の「罪」が語られていきます。そしてユダヤ人の「選民思想」に対する容赦ない鋭い批判が語られた後、人が義とされるのは、行いではなく、信仰にある。すなわち「信仰義認」の教えが3章21節で語られていきます。私たちが、神に救われるとはどのようなことなのか、神の霊によって生きるということはどのようなことなのかが、切々と語られていきます。パウロは、キリストを信じるがゆえに迫害にあうのです。

 ここでパウロの「危難のカタログ」について考えてみたいのです。苦難とは、押して生じる圧力であり、苦悩とは狭い場所に追い詰められる、傷つけられると言う言葉から、来ていると考えられます。自分では、どうすることも出来ない力に押しつぶされ、望まないのに狭い場所に追い詰められるような状態を意味しています。彼は、5章10節「敵」の時にすら、私たちを愛してやまない神の愛にダマスコで出会うのです。

 使徒言行録によれば、彼はこの道の迫害者です。その彼が、十字架のイエスに出会った途端、180度方向転換してこの道の推進者となるのです。けれども、この道の推進者として生きるということは、生やさしいことではありませんでした。そのことが、35節以下で語られています。この箇所を読むに当たってUコリント11章23節以下を読まねばなりません。ここには、キリストを信じたがゆえに「危難」が当たられています。そのような「危難のカタログ」は、モーセ、預言者たちにも共通するものです。イザヤ、エレミヤ、それ以前のエリヤも然りです。

 パウロは、なぜ、このような危難に合わねばならないのか、それはキリストを宣教したからです。そして彼は、詩篇44・23節を引用し、その危難を受けとめています。けれども、忘れてはならないのは、その時、主はパウロと共にいて下さるのです。孤高なパウロ。敵対する者たちによって迫害されているパウロと共に主は居て下さるのです。すなわち、逆境の中にあっても、主は共にいて下さるのです。キリストの愛は逆境を回避するための予防薬ではなく、むしろ、逆境の中でキリスト者を守り、それに打ち勝つ力です。

 パウロは、「キリストの宣教者」として神の義を生きました。けれども、彼の生き方はラジカルであるがゆえに理解されることはなく、敵対者は彼を訴えます。けれども、そのようなパウロを神は決してお見捨てにはなられません。そのことを私たちは、次の言葉で確認することが出来るのです。「キリストの愛から私たちを引き離すことは出来ない」。パウロはこのような体験をしたのです。私たちもこのようなキリストとの繋がりに生きたいと願っています。