【その男ではない】
                   ヨハネ福音書18:28〜40

 ヨハネ福音書18章全体を読むと、ローマ総督ピラトは、イエスを「裁こう」とは考えていないことが31節、40節を読むとわかります。けれども、民衆を敵に回しては後々面倒なことになる。何とかしてこの場を丸く収めたいと、考えたピラトは、「バラバ」か、それとも「ナザレのイエス」か、民衆に問います。ピラトは、きっと思ったに違いありません。

 いくら宗教指導者たちがイエスを「死刑」に処せようと扇動してもきっと民衆は「バラバ」というに違いないと、このようにして彼は責任を回避しようとします。(ヨハネ福音書19章4節)「バラバ」とはマルコ15章7節によれば、「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。」 マタイ27章16節では、「そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。」そしてルカ福音書23章19、25節には、「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。」いずれの共観福音書もこの「バラバ」を暴力的な人物として描きます。少し乱暴な言い方ですが、彼は目的のためならば手段を選ばない。テロリスト、革命家の一人と考えられます。けれども、あれほど「ホサナ、ホサナ」と子ロバに乗ってエルサレム入城(マルコ11章1〜11節)したイエスを熱烈に迎え入れた民衆が、数日後には手のひらを返し、宗教的指導者たちに扇動され「バラバ」と叫んでしまうのです。この民衆の声が後の「反ユダヤ主義」へと続くことになってしまったことは、悲劇です。

 わたしは、このピラトの態度と今回の「3・12」の「人災」を「想定外」として言い訳をする為政者(政治家)・東電幹部、所謂「原子力ムラ」の人たちとダブって見えます。この「人災」で大気、大地、海洋は放射能によって汚染されてしまいました。放射能被曝で、健康不安を抱えながら生活を強いられている人たち、特に子どもを持つ親は深刻であるにも関わらず、皆口を揃えて「想定外」の出来事であった。直ちに健康には害がない。と言うのです。まさに「無責任の体系」が戦後も続いていることを今回私たちは目の当たりにしています。犠牲を強いられるのは、いつも弱い立場の人たち、いのちを賭して「原発」を収束させるために働いているのは、下請け、孫請けの「原発労働者」の人たち、その縮図は沖縄の現実でもあるのです。

 戦前は「本土の捨て石」戦後は「安保の犠牲」になっていると言う「犠牲のシステム」が「フクシマ」そして「沖縄」にあることを忘れてはなりません。このようにして、不当な判決でイエスは「十字架」刑に処せられ「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。)マルコ15章34節)と叫ばれ、死なれます。そこには、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。その他に数名の婦人たちがいたとマルコ福音書15章41節には書かれています。

 イエスは、日曜日(棕櫚の主日)にエルサレムに入城され、金曜日に十字架に架かり、殺されます。わたしたちは、今までレント(四旬節)を守ってきました。今日から、受難週に入ります。それぞれの現場でこの受難の意味を深く受けとめて下さい。特に受難金曜日を大切に守りましょう。「受難日」祈祷会を守り、主の食卓の招きにこたえるものでありたいと、願っています