【希望を待ち望む】
                                                        ローマ信徒への手紙8章18節〜24節

 未曾有の東日本大震災から1年が過ぎました。被災地では、そのための「追悼集会」が行われます。日本キリスト教協議会(NCC)とカトリック協議会は、「3.11 東日本大震災を心にとめ、死者への追悼・被災者への慰め・被災地の再生を求める礼拝」を震災が起きた午後2時46分にエキュメニカルな礼拝として献げます。また東支区では、13日(火)に富士見町教会で、「大祈祷会」が行われることになっています。教会でもその日を覚えた、礼拝を今日は献げます。そのため、リタニー(交祷)と讃美歌を礼拝順序に加えさせて戴きました。それと同時に、この時、電源喪失によって起こった福島第一原発事故を通して、「核」について聖書から考える時を持ちます。

 戦争が人間の仕業であると同様、原発事故も人間の仕業であることを知らねばなりません。原爆と原発、この「一字」は深く結びついています。核分裂によってもたらされる莫大なエネルギーは、ヒロシマ・ナガサキに大きな惨禍を与えました。この大量殺戮兵器によって、沢山の人たちが命を落とし、今なお被曝によって多くの人たちが苦しんでいます。

 またその後も続けられたアメリカと旧ソビエト連邦の「冷戦下」の核実験で、アメリカはビキニ環礁で水爆実験を行いました。そして「第五福竜丸」の乗組員の人たちは、被曝し、命を落としました。生き残った人たちも放射能被曝によって、病気になり、苦しみ続けました。このような原子力を平和利用することが出来る、原子力は第二のプロメテウスである環境にも優しいと為政者は、「安全」「安心」であると原子力発電を推進してきました。

 ところが、今回の地震・津波が「想定外」であったので、事故が起きてしまったと、言い訳をしています。けれども、人間は神ではないのです。自然をコントロールすることは出来ないのです。そのことを今回の原発事故を通して、私たちは知らされたのです。

 パウロは、22節で「被造物が共にうめき、共に苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。」といいます。被造物が呻くという言葉は、今日の時代にとって、大きな意味を持っています。先週も同じテキストを読みました。そこで、考えたのは、私たちは、この「呻き」の声をどのように聞くのかと言うことでした。

 今、まさに被造物全体が呻いています。神さまは、私たちにその「声」に耳を傾けろといわれています。今回のこの原発事故を通して、どのような歩みをすることを神さまは求めておられるのでしようか。

 私たちは方向転換をしなくてはなりません。そのためには、被造物の「声」に耳を傾けねばならないのです。虚無にしたのは、神さまでした。けれども、その虚無から神さまは私たちを解放してくださいます。この約束を信じて、希望を失うことがないように共に歩み続けましょう。

 今、教会はレントを守っています。この時、私たちは、イエスの十字架について深く考え、祈らねばなりません。そして、復活の朝を待ち望むのです。十字架が絶望を象徴しているとするならば、復活は希望を象徴しています。神さまを信じる者にとっては、絶望は希望の礎なのです。被災地とその教会の働きのために祈りましょう。
 
 利権がらみの復興ではなく、真の復興を… そのために私たちが出来ることがあれば、少し無理をしてでも行動しなくてはなりません。そして、この1年目のこの時、被造物の呻きの声に耳を傾け、神さまの御心は何であるのかを考えて行きましょう。そのことを心に留めながら、レントの時を過ごしていきましょう。