【共に呻き、苦しむ、希望を信じて
              
               ローマ信徒への手紙8章18節〜24節

                       
 石牟礼道子さんの代表作は「苦海浄土」です。この作品の舞台は熊本県「天草」の不知火海です。そしてそこには「水俣」があります。この作品には「水俣病」で苦しむ人たちと共に闘争する人たちが描かれています。独得の文体と方言で語られているので、未だに読みきることが出来ないでいます。

 先週の日曜日ETVでは、「花を奉る」という題で、彼女の特集が組まれていました。一度見ただけでは、理解できない世界であると思い、録画しました。その中でこんなシーンが印象に残りました。それは、彼女が「水俣」の人々と共に旧厚生省の前に座り込みをしていたときの事です。

 1匹の子猫があらわれました。子猫は自分の排泄物に砂をかけようとして何度も、何度も、コンクリートを前足で掻いています。けれどもコンクリートを何度掻いても排泄物は、そのままです。それでもなお、子猫はコンクリートを掻いて砂をかける仕草を止めなかったのです。

 彼女は、自然は、動植物が共生できる場所でなくてはならないのに、このように子猫が住めない都会を人間は作ってしまったのだと思いました。 

 創世記を読むと、人間を祝福した後、神はこのように言われます「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うもの生き物をすべて支配せよ」「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」(創世記1・28〜29)

 パウロは、ここで人間だけではなく、「被造物全体」にスポットを当てています。彼はイエス・キリストの「来臨」は間近いと信じ、「将来わたしたちにあらわれるはずの栄光と比べると、取るに足らない」といいます。そして神の御前に出るとき、そのことが明らかにされると言った後、「被造物は、神の子たちがあらわれるのを切に待ち望んでいます。」(首を長くして待っている)なぜならば、自然も全被造物も虚無と破滅(腐敗)の状態にあり、これが全世界と歴史の現実であるといいます。そして服従させられた方の意志によってそうなり、そしてすべての「被造物」は解放され、救われるといいます。けれども今は、その途上にあるため、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっているといいます。この呻きと、苦しみは霊の初穂(1コリント15・20)をいただいたわたしたちも同様であるといいます。

 すなわち「アッバ、父よ」という叫びをあげた者も同じである。人間が、自分たちの知恵を過信して結果が環境破壊です。子猫が自分の排泄物を処理しようとして懸命にコンクリートを掻く社会に未来はあるのでしょうか。自然と共生するとは、自然の呻き、苦しみを感受し、「小さくされた人々」と共に寄り添う社会です。自然に優しい社会は、人にも優しいのです。すなわち、声なき声に耳を傾けることが出来るのです。わたしたちは、この虚無の中にいます。けれども、パウロはいいます。「心の中で呻きながら、待ち望むのであれば、希望を失うことはない。」とすなわち、イエス・キリストを待ち望む者には、希望があるというのです。

 今、わたしたちは四旬節第二主日を迎えています。今から、共に「主の食卓」に与ります。わたしたちは、この方によって活かされています。救いの道を歩んでいます。それゆえに、わたしたちには責任があるのです。その責任とは、終わりの時まで、主イエスに従うことであり、パウロが言うようにか細い被造物の呻きの声を聞くことであり、自然と共生する社会をつくると言うことに他なりません。