【あなたを解放したのです】


  先週の木曜日、金曜日に教団会議室で、部落解放センター運営委員会が行われました。その会議の中で、福島の現状が運営委員の片岡謁也さん(若松栄町教会牧師)より報告されました。また報告を受けて南相馬出身の牧師は「南相馬市では、75人にひとりの割合で死んでいるのに、全くそのことも報道されない。放射能汚染はより深刻で、新聞・テレビの報道とは異なる」と、話してくれました。

 被災後(「3.12」)しばらくして、教会内にパートナーの輝美さんは、「会津放射能情報センター」、放射能から子どものいのちを守る会を立ち上げられます。

 その報告の中で、特に考えさせられたのが、ご長男が結婚することになり、先方の両親に挨拶に行こうとした時、「自分の長男は、会津の出身であるが、今は東京に住んでいて、あの原発事故の時には、東京にいた」と言い訳をする自分に対して、彼女は苦しんでいる。と言うパートナーの謁也さんの言葉でした。

 「差別はいけない」と、部落解放運動を通してしてきたはずなのに…長男が結婚する時、先方に福島出身を隠さねばと言う誘惑。福島県内では、会津ナンバーの車は、他の福島ナンバーの車とは、違ってみられているので、駐車するとき大変だ。と言うような報告には、胸が詰まりました。自分の中にある差別性に気づき、受け入れることはしんどい作業です。けれども私たちはその作業を行うとき、自分のありのままの姿が見えます。

 パウロは、7章24節、あるいは3章21節を前提にして、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(断罪・有罪)と8章1節で力強く断言します。7章7節以下で苦悶しているパウロの姿は、ここにはありません。キリストイエスに結ばれる時、私たちは、「肉の法則」(5節、6節、7節、8節)から解放され、いのちをもたらす霊(理性)の法則によって生きるといいます。私たちは、肉的(有限)な存在です。自分の力では解放することは出来ません。そのような「罪」の中にある、この私のために、神はイエス・キリストをこの世に遣わされ、復活のイエスが私たちを生かすとパウロは言います。

 私は、この罪の問題を「自我」(エゴ)の問題として捉えて読みます。すなわち、前節24節の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。罪に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのでしょうか。」と言う言葉は前節7節の「むさぼってはならない」と深く結びついている。と考えます。律法の本質は、主なる神を愛することと、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛すると言うことです。

 芥川龍之介が「蜘蛛の糸」で、、陀多に「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚(わめ)きました。と語らせるように、 私たちには、自分さえ助かれば自分さえ良ければ、それでよい。と言う考え方があります。そのような私たちであるにもかかわらず、神さまは、私たちにいのちをもたらす霊をお与えになられるのです。ありのままのわたしを受け入れ、「なんと惨めな人間なのか」というわたしの深い淵の中で喘いでいる私たちの中に入り込んで下さり、神さまは私たちを霊的な存在として歩むように導いて下さいます。

 ガラテヤ信徒への手紙5章22節以下を読むと、霊的な存在として生きる私たちの姿が描かれています。「聖化」とは、キリストに倣う道を歩むことを意味しますが、神さまはこのわたしをありのままに受け入れ、その道に歩むための道を備えて下さいます。私たちは神に敵対(サタン)する存在を斥け、キリストイエスに結ばれた道を共に歩んでいきましょう。