私たちの故郷

       ヘブライ人への手紙11章1〜16節

  東日本大震災から8ヶ月が過ぎました。愛する人を失い、いのちを奪われた、その悲しみは今なお、多くの人たちを苦しめています。時間が経てば癒えると考える人もいますが、私たちは、私たちとともに苦しみ悲しんでいてくださる神さま(イザヤ書53章)にすべてを委ねたいと思います。

 先日教文館で一冊の新刊書が目にとまり、買い求めました。その本は57歳で卵巣がんでこの世の走るべき行程を走り尽くした荒井英子さんの『弱さを絆に−ハンセン病に学び、がんを生きて−』という本です。新約聖書学者であるパートナーの荒井献さんが編集されています。
 
 彼女は、恵泉女学園大学人文学部の教師になる前は、牧師としてハンセン病の人々と出会い、彼女らとの出会いを通して『ハンセン病とキリスト教』を著します。そこで彼女は、「らい予防法」がどのようなものであったのか、その「悪法」を結果的に支持することになったハンセン病医療に携わった女性キリスト者たちを批判的に捉えると共に、日本MTLの歩みを厳しく批判しました。様々なマイノリティーの人々との出会いを通して、旧約聖書学者としてまた人間環境学科の教員として病によってこの世の旅路を終えるまで自分を見つめつつ、キリスト者として歩み続けられました。
 
 特に彼女に影響を与えたのが、「べてるの家」の人々との出会いであったようです。彼女は、ここで弱さを絆としていく共同体のすがたを見ることになります。この出会いが彼女の人生に大きな衝撃と感動を与えます。
 パートナーの荒井献さんは、あとがきで次のように書かれています。少し長いのですが、引用します。

 人間の死は、いずれにしても人智を超えて「外から」やって来るものである。キリスト教ではこれを神の「摂理」と呼ぶ。しかし一般的にいえば、それは自然の「不可避性」であろう。私たちは今、この「不可避性」としての死を徹底的に認識させられている。そしてその究極が、英子もメッセージの中で言及しているようにイエスの十字架死ではないか。彼は十字架刑を前にして、ひどく恐れてもだえ、「この(死の)杯を取りのけて下さい」と、神に祈っている。(マルコ14・36)。そして十字架上では、「わが神。わが神。なぜ私をお見捨てになったのですか」と神に迫り、息を引き取っている(同15・34〜37)ここでイエスさえ、「不可避性」としての死を、終局的にはそれに身を委ねているが、それを甘受してはおらず、最後まで苦しんでいる。これは人間の弱さの究極ではないか、と私は思う。

 ところが、こうして死についたイエスを見て、十字架刑を指揮したローマの百人隊長が、「本当に、この人こそ神の子だった」と告白した。(同15・39)。イエスの死がその敵から「いのち」を引き出す力になったのだ、といわれる。同様に、十字架刑を前にしてその師を捨てて逃亡したペトロをはじめとする弟子たちにも、師の死は彼らの「いのち」となった。この男弟子たちに告げるようにイエスの復活の場面で天使によって命じられたのが、マグダラのマリアをはじめとする、十字架の死に至るまでイエスに従って仕えていた女性たちであったという(同16・7。15・41も参照)こうして、「弱さを絆に」最初期のキリスト教が成立したはずである。

 人間のいのちは、自然と共に、死と響き合って永遠に継がれている。このように体験に基づく英子のメッセージは、大震災の被害者たちにも援助者たちにも届くのではなかろうか。

 この言葉を心に留め、聖徒の日・永眠者記念日の主日礼拝、ヘブライ人への手紙11章1〜16節を読みます。
 キーワードは、「信仰によって」です。最初に登場するのが、アベルです。彼は兄カインによって殺されます。何歳で死んだのかは、書かれてはいません。そしてアベルを殺したカインの子エノクが次に登場します。彼は、「死を経験せずに天に移された」と記されています。その後 ノアが登場します。彼は、「洪水」を経験し、正しい人として950歳で生涯を閉じたと記されています。これまでが神話の世界とされている「原初史」に登場する人物です。

  彼らは神さまの恵みの中に生きようとした信仰者です。そして次にアブラハムが登場します。神の祝福を受けた彼の生涯は175年でした。詩篇90編の10節では、「人生の年月は70年程度のものです。健やかな人が80年を数えても得るところは労苦と災いに過ぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」ということからすると、これらの人々がなぜ、これほどの長寿であったのか、大きな疑問が生じます。モーセは120歳。ヨブが140歳です。それらの人たちと比較してもあまりにも長寿であることがわかります。ですから、字義通りに受けとめるのではなく、彼らは神の祝福の中にあった。と考えることにしましょう。

 けれども、ヘブライ人への手紙11章13節を読むと、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでした。はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮の住まいのものであることを公に言い表したのです。」とあり、それ以下を要約すれば、旅人としてこの地上での旅を終えました。
 人生を四季にたとえたり、人生を旅にたとえることは古今東西の知者が説いています。ここでは、彼らは「信仰によって」この旅を終え、神さまが用意された都に入るのです。

 私たちにも必ず死がおとずれます。「私たちは死に向かっている存在である。」これは真実です。この教会との繋がりを持って召された方々は、29名の方々です。そこには、小学校に入学する前の兄弟がいます。また道半ばにして病に苦しみ喘ぎながら死を迎えざるを得ない人もいます。病気ゆえに神さまのみ手の中で自死をした兄弟姉妹がいます。天寿を全うしてこの生涯を終えた兄弟姉妹もおられます。ただ確かなことは、今神さまの御許におられると言うことです。

 先ほど紹介した荒井英子さんの本の一節を紹介して、このヘブライ人への手紙11章1〜16節を分かち合い、この聖徒の日・永眠者記念礼拝を閉じます。
 
 「人生は、長い短いは神の決めること、しかし深い浅いは自らの生き方次第と思い、課題に誠実に向き合って『今』を生きぬこうと念じています。」
 
 私たちそれぞれが主が召されるその時まで、互いに走るべき行程を走り尽くしたいと願っています。(フィリピ信徒への手紙2章16節。)