キリスト・イエスの僕

ローマ信徒への手紙1・1〜7
                                

 牧会者は、手紙をまめに書くと言われています。パウロも多く手紙を書いています。新約聖書の中には、21通の手紙がありますが、彼が書いた手紙と彼の弟子たちによって書かれた手紙を併せると、13通にもなります。彼は、多くの教会の仲間に対して、旅先(宣教旅行)から、手紙を書いています。けれども、彼の畢生の書となったこのローマ信徒への手紙は、未だ見ぬ仲間に向けて書かれているのです。
 
 十数年、伝道者としての役割を終える(殉教)に際して、この手紙をコリントの地から、書いています。そしてこの手紙には、伝道者パウロのすべてが注入されているといわれています。ある人は、この書を「パウロの神学」の集大成として読んでいます。

 ここでは、パウロは自己紹介からこの手紙を書きはじめています。「キリスト・イエスの僕」僕とは、奴隷のことです。そして彼は、神さまによって召された使徒(1:1)である、といいます。

 使徒とは、イエスの教えを直に受け、復活の証人として、イエスが教えられた「神の国」の福音を語るものをいいます。けれども、パウロにはその資格はありません。なぜなら、パウロはイエスの教えを知らなかったからです。そればかりか、彼は使徒言行録によれば、「この道に従う者」(使徒言行録9:1〜2)に対して、律法遵守するファリサイ人パウロは、義憤に駆られ完膚なきまで打ちのめし、抹殺する非情な人間として描かれています。
 そのようなパウロが、劇的な回心をして「この道に従う者」の迫害者から、「この道に従う者」(後にクリスチャンと呼ばれる人たち)の推進者へと180度変えられて行く様子が、使徒言行録9章にルカの筆によって描かれています。
 
 ペトロとパウロ二人とも初代教会をつくるために命がけでキリストを伝えました。パウロは、「異邦人」に向かって、積極的にキリストを宣教したのです。彼らが伝えたのは、「十字架」に架けられたキリストでした。そしてパウロは、そのために自分は使徒として召されたといいます。

 彼は、ダマスコ途上で「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞きます。その声に対して、「主よ、あなたはどなたですか」と問います。すると「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ、そうすれば知らされる。」という声を聞きます。この神秘体験ともいえる出会いが、彼を迫害者から推進者へと変えるのです。

 自分をキリストの僕として未だ見ぬローマの教会の仲間に対して、自己紹介しているパウロ。彼が語ってやまないのは、キリストです。このキリストを彼は、信仰の対象として語ります。単なる教理として読むのではなく、私たちの生き方の使信としてこれから、この手紙を読みます。