ローマ信徒への手紙7章13〜17節

                  【恵みの中にあるはずなのに】
 水曜日の聖書研究・祈祷会では、創世記を共に読んでいます。37章からは、「ヨセフ」とその兄弟たちが描かれています。夢を解く力が与えられ、そのことが原因で彼は、兄弟たちの反感を買い、殺されそうになりますが、兄ルベンによって命拾いをして、エジプトに奴隷として売られます。けれども、才能に恵まれていた彼は、次第に頭角をあらわし、ポティファルの信用を得て、主人の全財産を任されるまでになります。けれどもポティファルの妻は彼が自分の思い通りにならなかったことに腹を立て、濡れ衣を着せ、彼を獄に入れるように仕向けます。

 そのような中にあっても彼は、神さまを信頼して歩み続けます。ヨセフは、すぐれた人物です。キリストのモデルと見なされる人物として描かれています。私たちは、ヨセフのような人物ではありませんが、キリストの恵みの中に生かされています。

 パウロの論敵たちは、キリストによって解放されていると言うことを誤解します。そのため、その人たちの誤りを踏まえて、「決してそうではない」(6・2、7、 7・13)と彼らの主張をきっぱりと否定しキリストの恵みの中にあると言う事は、イスラエルの民にとっては神との契約のしるしの「律法」を抜きにしてその目的を果たすことは出来ないといいます。

 ここでパウロは「罪」の問題を「私」という一人称で語ります。先週もそのことに少しだけ触れました。それではここでパウロがいう「私」とは誰を指しているのでしょうか。回心以前のパウロ、回心後のパウロ、彼の信仰・思想を受け継ぎ新しい道を歩んでいる人たち、その人たちの延長線上にいる私たち等…いろいろな読み方が出来ます。

 アウグスティヌス・宗教改革者たち・内村鑑三らは自分の「罪」の問題として読んでいます。それでは具体的には何がここで「罪」として捉えられているのでしょう。そのキーワードが「肉」という単語です。(14、18、22)肉とは、有限で死ぬべき存在(死を背負って生きること)を意味しています。その結果、人(人類)はどのような歩みをすることになったのか、「原初史」(創造物語からバベルの塔まで)がそのことを見事に物語ります。またそのことは自我の問題として考えることが出来ます。自己の救いをのみを求めるすがた「安心立命」を求道する姿勢は宗教的なことです。けれどもそれにとどまるのであれば、聖書に生きるということにはならないのです。

 私たちは、「肉」的存在です。けれども「霊的」な存在でもあります。霊的な存在である私たちは、神とのつながりに生きることが出来ます。別の言葉で言えば祈る存在と言うことです。祈りは神との対話です。何が神さまの御心なのか、私たちは聖書を通して、祈り、礼拝、交わり、出会いなどを通して神さまから示されています。その時、私たちは自己の救い、解放から「他者」(隣人)へと向かうのです。私たちは「肉」の存在として生きています。そのような私たちが霊的な存在として歩むように神さまが私たちを導かれるのです。その道を歩むために私たちは、先ず自己の「罪」を
自覚しなくては新しい道を歩むことは決して出来ません。