マタイよる福音書2章1〜12節
                        【別の道を通って】

 閉塞感が漂うと、私たちは保守的になり、強いリーダーを民衆が期待するということは、今にはじまったことではありません。大阪都構想を掲げて当選した橋下徹さんは、そのような意味で象徴的な存在と言えます。彼らの支持候補が市長選で敗れると、手のひらを返したように
彼にすり寄るような国家のリーダーたちのすがたは、見るに偲びません。

 私たちは、今の時代だからこそ、マイノリティーの人々を大切にした政治を望みます。そして、そのような対極にあるのが、「力」による支配であるということは言うまでもないことです。星に導かれてやって来た東方の「占星術師」がヘロデの所を最初に訪問したということは、極めて常識的なことでした。なぜならば、新しい「王」(支配者)はそのような場所で誕生したと考えたからです。けれども、イエス・キリストはそのような場所では誕生しなかったと、マタイ・ルカは語っています。

 マタイ福音書の系図に登場する人物、特にそこで取りあげられている女性たちは、今でいえば理由(ワケアリ)の女性たちです。タマル・ルツ・ラハブ・ウリアの妻たちです。

 ダビデの子孫としての系図の中に、この様な女性たちの名前が記されているということを注目しないわけには行きません。マリアの妊娠を知らされたヨセフは、マリアの胎内に宿っている子が、聖霊の導きによるものであったとしても、世間はそのような神さまの導きを知りません。だからこそ、イエスは「家畜小屋」で誕生することを余儀なくされます。(ルカ2・6〜7)彼女の妊娠が神の祝福の「徴」であると、この知らせを知らされなかった者たちは、信ずることが出来なくて、当然です。そのような流れの中で、登場するのが賤業とされていた羊飼いたちに他なりません。彼らの生活は、過酷で危険を伴うものでした。けれども、それに見合った報酬を手にすることは出来ませんでした。そして東方から星に導かれてやって来た「占星術師」も同様です。

 そのような人々にこの福音(よき知らせ)は、告げ知らされました。2章の後半を読むと、ヘロデが幼児を無差別殺戮したことが記されています。この記事をある人たちは、フィクションとして捉えます。旧約聖書のモーセ誕生の物語と重ね合わせて読む人もいます。イエスこそ、偉大な指導者であると、マタイは語っていると。…このような様々な読み方をします。

 けれども、大切なことはヘロデの住む宮殿でイエスは誕生したのではなく、家畜の糞尿の臭いが立ちこめるような場所でイエスは、誕生されたのです。

 最初にヘロデの所を尋ねた「占星術師」たちに、その場所での誕生がどのような衝撃を与えたのでしょうか、想像してみて下さい。大きな衝撃であったと思います。彼らはその幼子の誕生を心から祝い、自分の大切な商売道具を贈り物として献げます。その結果、彼らは再びヘロデの所に赴くことはしませんでした。聖書は、そのことを「別の道を通って帰った」と記しています。

 ヘロデの道、それはマイノリティーの人たちが切り捨てられても仕方がない。という考え方に他なりません。「在日」の人たちに「東日本大震災で在日外国人の被災者に眼を向けているのか」と問われれば、私たちはどのように応えることが出来るのでしょう。

 力による支配から、共に生きる道へと方向転換するようにと、私たちは招かれています。そのことを心に留めた一年として歩んでいきましょう。