【ひとりもいない5/15
                     ローマ信徒への手紙3章9〜20節
 
 
  パウロは、ギリシャ人の罪とは、自然との関係を壊したこと、すなわち「性的倒錯」を犯したことであると言います。けれどもこのような論法は性的マイノリティーの人々の居場所を共同体から排除することになります。ですから、パウロの論法は注意して読まねばなりません。むしろローマ1章29節以下が罪のリストとしてあげられると私は考えています。

 また2章には、自分たちこそ神から選ばれていると言うユダヤ人の「優越感」が問題にされています。パウロにとってはギリシャ人もユダヤ人も「弁解の余地がない」(ローマ1章20節・2章1節)と言うのです。すなわち、すべての人間は、神の怒りから免れることのない裁かれるべき存在と考えています。(ローマ1章18節)「罪」とか「罪人」という言葉は、もちろん耳あたりの良い言葉ではありません。普通「罪人」と言えば、罪を犯した者を指します。

 私たちが、裁かれねばならないような法律的な犯罪を問題とする限り、それは無縁かもわかりません。 聖書が語る「罪」は、神と私たちの関係の破れを意味しています。人間関係でもそうです。あの人は信頼出来ない。口では偉そうなことを言うが…と考えたとき、その人に対する信頼は一瞬にして失われてしまうかもわかりません。

 今、私たちの多くは政治不信に陥っているのではないでしょうか。東日本大震災の地震と津波で東京電力福島第一原発は大きな事故を起こしました。事故が起きたとき、原発では「止める」「冷やす」「閉じ込める」と言う順番で原子炉を安定させます。けれども、福島第一原発では、未だに「冷やす」と言うことが出来ずにいます。スリーマイル島のような原発事故とはならない。チェルノブイリのようなことにはならない。と専門家はテレビ出演で言い、枝野官房長官、原子力保安院、原子力委員会も口を揃えて「安心」と言っていました。国民がパニックに陥らないようにと言う理由で隠蔽することは決してゆるされません。医療でもインフォームドコンセント(説明と同意)が成されなければ健全な治療関係は成り立ちません。情報を公開することを怠るとき、信頼は崩れ、関係は失われるのです。

 聖書は、神と人間との関係は、契約を破ったにもかかわらず、その関係を神は切らずにおられると一貫して語ります。そのことが10節以下で語られます。主に詩編の祈りと告白が引用されます。10〜12節では、詩編14編1−3節。注目したいのは、10節、「ひとりもいない。」11節 「神を捜し求めるものは一人もいない。」12節「ただの一人もいない。」すべて否定の言葉で連ねられています。2・14、 3・1では、すぐれた点がある。と言いながら、ここではそのことをすべて打ち消すように激しい言葉で一人もいない。先の詩編を引用して言い切っています。次に詩編5・9、140・3、10・7。最後にイザヤ書ともう一度詩編が引用されています。イザヤ59・7−8、詩編36・2。ここで人間の器官として喉、舌、唇、口、足が取りあげられています。そのことを考えるに当たって以前、共に分かち合ったヤコブの手紙が参考になります。(ヤコブの手紙3章2−12節)前後しましたが、ここで指摘(告訴)したと言うことを9節の後半で語っています。すなわち、パウロは告訴の理由という意味で、10節〜18節までをあげているのです。ひとりもいない。このことを私たちは神との関係という物差しで考えねばなりません。

 私たちは、皆、神の前に罪を犯している。すなわち、神と人間との関係は喪失している。そしてこの罪の法則から逃れることは誰も出来ない。(ヨハネ福音書8章34節)そのことをパウロは、5章12節以下でさらに語ります。