【恵みにこたえる生き方】
ヨハネ黙示録21章9~27節

 紀元前587年に、南ユダ王国はバビロンのネブカドネツァルによって、「神殿」もろとも滅ぼされてしまう。

 主だった人たちはバビロニアへ強制連行される。預言者エゼキエルは、その十年前、前598年の第一回の捕囚の際、捕囚民と共にバビロンに移住し、ケベル川のほとりで祭司・預言者として活動する(エゼキエル書1章1節)。その後、25年経ってから「主の手」によってイスラエルに連れて行かれる。そして「非常に高い山の上に下ろされ」、そこから都エルサレム「神殿」の幻を見る。

 ヨハネ黙示録21章は、これを下敷にしている。その前には「大淫婦が裁かれる」17章「大バビロンが滅びる」18章というメッセージを思い起こしてほしい。彼は大バビロンが滅んだように、ローマ帝国もやがては滅びると、迫害・弾圧下にあるアジアにある七つの教会に向けて語る。

 預言者エゼキエルは、エルサレムの陥落と神殿の破壊及び略奪という苦難を経験した。当時のユダヤ人にとっては、「自分たちが信じてきた神ヤハウエよりも、バビロンの神々の方が力強く、頼りになるのでは」という考え方は、自らが拠り所としていた土台が揺らぐことであった。これほどほど辛いことはない。(村上 伸)

 「新しいエルサレム」とは、一辺が二千二百キロ、ほぼ日本全土に匹敵するほどの広さである。この都には「大きな城壁」と十二の「門」と、その土台があり、それらはすべて宝石で飾られている。(18節)新しいエルサレムでは、イスラエルのすべての民が神の栄光の光に照らされている。ヨハネはエゼキエルが見た幻と同様の幻を見る。エゼキエルは絶望の淵の中にある人たちに寄り添い、その中で「ヤハウエはあなたと共にいる」すなわち、「あなたはどこにいようとも、そこに神はおられる。」(M・ブーバー)ことを経験する。

 Eテレで「100分で名著の拡大版を見た。司会は稲垣吾郎、安部みちで、社会学者の大澤真幸(アンダーソン『想像の共同体』)、作家の島田雅彦(マキャベリ『君主論』)、評論家の中島岳志(橋川文三『昭和維新試論』)、漫画家のヤマザキマリ(安部公房『箱舟さくら丸』)を紹介し、ナショナリズムとは何かを語った。わたしたちは一人では生きてはいけない。帰属するものを探す。その結果、ナショナリズムが生まれると中島岳志は解説した。国家を越える。その中で一体となる(溶け合う)経験が「超国家主義」の一面にあると語っていた。わたしたちは何かに頼らねば、生きてはいけない。自らが決断して、殻に閉じこもるような「引きこもり」もあるが、そのような対人関係の破れは、自然なかたちであるとは言えない。箱舟に入るものと入れないもの、神の恵みの中にある人とその外にある人という図式にわたしは戸惑いを感じてしまう。

 今日の箇所はまさにそのような箇所である。しかし、その資格は、27節にある。その言葉を無視してはいけない。偏狭なナショナリズムの時代には希望を見出すことは出来ない。

 古い時代はやがて必ず革(あらた)まるとエゼキエルが、ヨハネが信じたように、わたしたちもその日を恵みの時として信じ、その時を急ぎつつ、待つものとして「中間時」を生きるならば、人間の力や知恵では、実現は出来ないということを自覚し、純粋な花嫁のような姿で「天から下ってくる」、恵みの中にあるものとして生きたい。