【帝国の末路】Part1
ヨハネ黙示録18章1~9節

 列王記下には、バビロン捕囚の時の悲惨な状況が語られる。「王は捕らえられ、リブラにいるバビロンの王のもとに連れて行かれ、裁きを受けた。…その上でバビロンの王は彼の両眼をつぶし、青銅の足枷をはめ、彼をバビロンに連れて行った。」(列王記下25章6~9節)王は戦犯として裁かれ、バビロンに捕囚される。王の重臣、官僚、いわゆるエリートたちも同様にバビロンに捕囚される。南ユダの国(地)は完膚なきまでに破壊され、貧しい者たちはその場に捨て置かれる。詩編137編はこのように結ばれる。娘バビロンよ、破壊者よ/いかに幸いなことか/お前がわたしにした仕打ちをお前に仕返しする者/お前の幼子を捕らえて岩にたたきつける者は。」(8~9節)。そのようなストレートな怒りの感情をわたしたちは受容出来ずに困惑する。

 韓国に恨(ハン)という言葉がある。怒りと悲しみを重ね合わせた言葉で、抑圧された者たちの声に出せない声がここにはある。バビロンに捕囚された民はペルシャの王キュロスによって解放令が出されるまで、約50年その地で過ごす。

 繁栄の極み、「ローマ帝国」が滅びると天使からの声を預言者ヨハネは聴き、教会の人々に語る。実際ローマ帝国の迫害・弾圧下にキリスト者はあり、希望が見いだせない。トンネルの先が見えない、光が見えない現実を直視した上でヨハネは「倒れた。大バビロンが倒れた。」そして悪霊どもの住みか、巣窟(留置所)となる。と、なぜ、そのような闇が支配するのか、それは3節「みだらな行い」すなわち、偶像崇拝である。

 わたしたちは「偶像崇拝」という言葉の究極は木仏金仏を拝むことではなく、自分自身を神とする、為政者が自分を礼拝の対象とさせる。この世の価値観から脱皮できず、科学技術を過信し、自然を人間が支配すること、また神の正義と公平に反する行為も偶像崇拝である。

 大バビロンが倒れる。そして悪霊どもがサタンに従って働く、その結果、3節で語られるような不公平極まりない社会が神によって審判を受ける、ということが4節で語られる。4節以下にはその末路が語られる。そして彼女から離れ去れ…と偶像崇拝が神の前に忌み嫌われる行為であることが語られる。審判と救済が、そして教会はその場から離れよ。

 わたしたちはヨハネ黙示録の世界を単純に今の時代と結びつけることには慎重でなくてはならない。しかし、これを「絵空事」としてもならない。

 日本はかつて朝鮮半島をはじめとする国々を「植民地」とした。靖国神社のなかにある「遊就館」には「大東亜戦争」を美化し、太平洋戦争は正義のため、アジアを開放するための戦争である。というメッセージで埋め尽くされている。そのような植民地支配にあったアジアの人々が強制連行された。劣悪な環境の中で、働かされた。人権が蹂躙され、来る日も来る日も労働が彼らを傷つけ、蝕んでいった。

 わたしたちは、そのような過去の歴史に蓋をすることは出来ない。歴史を直視しなくてはならない。あったことをなかったことには出来ない。ヨハネは偶像崇拝をする者たちに神の裁きが降ると語っている。そしてそれは端的に「罪」であると、語り、ヨハネは「その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。」とロト(創世記19章)に語られたように、主の裁きを畏れ、神の御心をひたすら祈り求めることをわたしたちは心にとめなくてはならない。