【目を覚まして、備えよ】
ヨハネ黙示録16章10~21節

 96年前、「関東大震災」が起こった。190万人が被災、10万5000人あまりが死亡または行方不明になった。しかし忘れてはならないのは、この地震で「在日」朝鮮人、中国人がデマによって、朝鮮人5000人以上、中国人500人が虐殺されたと推定されている。

 第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣を支配する国は闇に襲われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに神を冒涜した。深い闇、絶望が人々を襲った。為す術のない者たちは、自らいのちを絶たざるを得ない状態に追い込まれてしまう。わたしたちは、先が見えないとき、戸惑い、絶望へと追い込まれていく。その時に「にもかかわらず」という内から出る存在の力が与えられれば、ナント素晴らしいことかと思う。それがユーモアである。そのような人は神を冒涜するようなことはしない。けれどもまた冒涜しても、その人たちのためにも主は十字架に架けられたことを忘れてはならない。

 第六の天使が「ユーフラテス川」に注ぐと、川の水はかれてしまう。すると、日の出る方向から来たる王たちの道ができる。

 出エジプト記7章25~29節には、この蛙のことが記されていた。この蛙は、汚れた霊の象徴である。汚れた霊によって、神に敵対する者(王)たちが集められる。集められた場所が「ハルマゲドン」であった。

 アメリカの原理主義、オウム真理教はこの場所を強調する。

 士師記5章19節、列王記下23章29節にこの場所が登場する。士師デボラは、女性であった。士師記5章はデボラの歌として有名である。

 列王記下23章29節には、エジプトのネコ(ファラオ)は、「メギド」で彼を殺した。このようなことから、戦い、戦争の象徴として、この場所が受けとめられた。

 わたしたちはここでハルマゲドンという言葉には深入りをせずに15節に戻りたい。そこには、「目を覚ましていなさい」という言葉が出てくる。目を覚ましていなさい。ヨハネ黙示録3章3節「生きているとは名ばかりで、死んでいる。」盗人のように…(マタイ24章41節)「盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。」・「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」(テサロニケⅠ5章2、4節)これらの言葉は、終末、主の来臨、新しい世界を示唆する。

 自然の脅威が、稲妻、轟音、雷、大地震と続く。まさに異常気象によって、そして地震によって、都が滅びる。神の怒りが襲う。このような災難にあう時、わたしたちは神を冒涜すると、ヨハネは語る。しかしここに幸いな者が語られている。いつ主が来られても良い備えをする者として、生きる者の姿が語られる。それはユーモアのある人だ。どんな状況の中にあっても生きる勇気が与えられている人である。ヨハネ黙示録を読むとき、全てを「絵空事」として読んではならない。しかし全てがこのようなかたちで、終末が起きるとして読んでもならない。

 終末は、私たちには希望である。希望はどん底の中から生まれる。復活に生きる教会は、どんなことがあっても「だいじょうぶだよ」という主のみ声を聞く者に他ならない。そのものらは、主にあう備えをなし、衣服を身につける(黙示録16章15節)に他ならない。