【地上に注ぎなさい】
 ヨハネ黙示録16章1~9節

 この教会で神学生として奉仕された大野惠正先生は、集大成として『旧約聖書入門』を書かれている。現在、出エジプト記までを執筆された。10の災いをこのように纏めている。「ヤハウエがイスラエル人をエジプトから脱出させるために、どれほどの力を注いでこれを成就しようとしたかを、この記述を通して読み取ることです。このことを通して、『現人神』とされてきたファラオが、水、大地、大気、そして光と闇の世界の支配者などではないこと、これらを究極的に統治するのは神であり、しかも最底辺で生きている者を救済するために、神はその支配力を発揮することを示します。人間があたかも神のように振る舞って、水質を汚染し、大地を不毛にし、大気汚染が世界の気象状況を混乱させている今世紀の現実を考慮するとき、『現人神』のように振る舞っている私たち人間の尊大さを見せつけられます。」

 私たちは自然をコントロールすることも支配することも出来ない。そのことを見誤る時、自然は私たちに牙をむく。「水俣」などの公害、そして3・11後の原発事故もまさに、その警鐘として受けとめることはできないのか。

 この箇所には、「注ぐ」という動詞で神の怒りが語られる。(1)「その鉢の中身を地上に注ぐと」(2) 獣の刻印されている人間たちには腫れ物が出来た。「その鉢の中身を海に注ぐと」(3)海は死人の血のようになって、その生き物はすべて死んでしまった。「その鉢の中身を川と水の源に注ぐと」(4)水は血になった。さらに第四の天使が、「その鉢の中身を太陽に注ぐと」(8)、太陽は人間を火で焼くことをゆるされた。と記されている。これらに共通するのは「裁き」である。「出エジプト記」と読み合わせると、そのことが明白となる。7章20~21節 、9章10~11節、エジプトに危機的な状況が次から次へともたらされる。

 8章には7つのラッパを吹く天使が描かれ、この天使がラッパを吹くと、三分の一という数字で、わたしたちに恐ろしい裁きが語られる。すなわち、地上の三分の一は生存(住めなくなる) できない。三分の一という数字は決して小さくはない。裁きが三分の一に及ぶのだから(8章6~13節)。しかし三分の二は裁きから免れる。預言者エゼキエルは、「都の中に預言者たちの陰謀がある。」という言葉で、正義を代表するはずの人々、預言者、祭司、高官などが不正義を行う。(22章25~29節)と語る。

 私たちは、自分たちこそ「正義」であると考えている。その時、歴史は都合の良いように解釈され、戦争も肯定されうる危うさに気づかねばならない。長年教師を務め、今は牧師職にある飯島 信さんは、「子どもたちにかつての日本の植民地、戦時下の蛮行を語ると、子どもたちはうつむいてしまう。しかし語らねばならない。抑圧され、虐げられた現実の姿を「自虐史観」と言う人がいるが、わたしはそれを語る。」といっている。

 裁きは私たちに恐怖を与える。しかし、そのことを私たちは避けて通ることは出来ない。わたしたちは「正義」である。だから裁きを恐れない。という思考は絶対主義に陥る危険性がある。支配層・エリート層はこの論理で抑圧を肯定する。

 南アフリカのツツ司教が語るように、抑圧された側から思考するとき、テロリズムが撲滅する。その者達は、被造物の呻き(ローマ8章22節)の中に主の御心を見出し、神の正義と公平を生きる。