【驚くべきしるし】
ヨハネ黙示録15章1~8節

 先週、8・15東京集会に出席した。講師は若手の歴史学者、中村江里氏であった。彼女は「戦争」(日中・太平洋)において、兵士たちがPTSD(心的外傷後ストレス障害)、トラウマに苦しめられる背景には、兵士に対する私刑(リンチ)のような暴力があったと資料を通して語られた。戦中の「読売新聞」には「大戦名物の“砲弾病”皇軍には皆無であるとし、精鋭なる国軍に於いて20歳から40歳迄の而も働き盛りの者が勇敢無比の戦闘をなし得ないとしたら、之こそ支那軍の幼少兵や女子学生にも劣るものであり、末代迄の恥辱といわねばならない。」とし、「戦争神経症」は皇軍においては皆無である。この講演を聞いて、ドイツ精神医学史の研究者小俣和一朗の「ナチズムと精神医学」を思い起こしていた。

 ヨハネの時代、皇帝崇拝を忌避(拒否)した者たちは迫害・弾圧された。容赦ない暴力が日常化された。何時終わるとも知れない暴力の中で、人々は不安にさいなまれていく。そのような中で、ヨハネは力強く、幻を通して、人々を勇気づけ、励ます。彼は天使が最後の災いを携えているのを見る。16章にはその災いがしるされている。わたしは出エジプト記の「10の災い」を思い起こしていた。①血の災い、②蛙の災い、③ぶよの災い、④あぶの災い、⑤疫病の災い、⑥はれ物の災い、⑦ヒョウの災い、⑧いなごの災い、⑨暗闇の災い、そして⑩最後の災いがエジプトに起こる。それは悲劇以外のなにものでもない。ファラオはモーセたちをエジプトから去ることを表向きは容認する。しかし、納得できないファラオはモーセたちを戦車で追い詰める。しかし、神はモーセにみ手を差し伸べられる。それが出エジプト記15章にある「紅海の奇跡」である。ファラオにとってはこれまでの災い(10の災い)は皆、苦難・苦悩以外の何物でも無い。しかし、モーセたちにとってはこれらの災いは神がみ手を差し伸べられた大きなしるし以外の何物でも無かった。すなわち、裁きがキリスト者にとっては「恵み」へと変わる。先週、私たちは14章14節以下を通してそのみ言葉を聞いた。まさにこれらの災いはローマ帝国にとっては、災い以外のなにものでもない。

 今、香港で起きているデモに対して、中国政府は武力で鎮圧すると威嚇していることが連日のように報道されている。「ローマ帝国」の平和が武力(力)によって維持されたように、中国は秩序を乱すような動きは容赦しない。あの30年前の「天安門事件」が再び起こるかも知れない。という危惧がわたしたちにはある。中国の活動家、劉 暁波は獄中で「ノーベル平和賞」を受賞した。彼は、キリスト者ではなかったが、ボンヘッファーの著作に大いに励まされ、慰められる。

 抑圧された者たちにはこの箇所は「解放の歌」として響くのではなかろうか。ヨハネは語る「火が混じったガラスの海のようなものを見た。更に、獣に勝ち、その像に勝ち、その数字に勝った者たちを見た。彼らは神の竪琴を手にして、このガラスの海の岸に立っていた。」 ガラスの海は「蒼穹(そうきゅう)」で、火が混じった「稲妻」であるが、まさに「ローマ帝国」が倒れるのである。出エジプトの「出来事」が再び起こるという幻をヨハネは見た。出エジプトの出来事は昔のことではない。まさに今、世界で苦しむ人たちにはこの驚くべきしるしは「解放の歌」なのである。