【神の民】
 ヨハネ黙示録11章1~14節
 
 今日は「母の日」。全国の教会はこの日を覚えて礼拝を献げています。テレビで老人ホームに務めている職員から、カーネーションを贈るのを遠慮してほしいという主旨で書いたイーターネットの書き込みが話題となり、賛否両論の意見が書き込まれたことが、報道されていました。「カーネーションだけを送りつけられても、お世話をするのは職員であり、人数分の花瓶を用意するのは難しい」という現実が語られていました。カーネーションを贈るのではなく、訪問する。絆を確かめ合うことが大切である。というコメンテーターのコメントに同意しました。

 評論家の加藤典洋氏が近著『9条入門』で、マッカーサーはマザコンで、ウェストポイントの陸軍士官学校を首席で卒業するほど優秀であったが、同時に入学に際し、母親メリーがすぐ近くに転居し、つねにその後ろ盾として付き添ったことで、からかわれたといわれていたことを紹介しています。アウグスティヌスの母モニカは今でいう教育ママで、母の影響から逃れることが出来なかった。という山田 晶氏の文を思い起こしました。

 マッカーサーは天皇による統治を志向し、天皇と9条をセットで考えていたという加藤氏の文を読み、占領の2000日間に日本をキリスト教国にしようと目論んだという袖井 林二郎氏の『マッカーサーの二千日 』を思い起こしました。

 先週、「いのちの息、生ける霊が神から(送られてきて)彼らの中に入った。」というみ言葉に聴きました。彼らの役割は千二百六十日の間、人々に悔い改めを説くことです。しかし彼らは一匹の獣によって滅ぼされ、そしてやがて立ち上がり、その後天に上った、神の絶大の力は獣を滅ぼす。

 すなわちローマ帝国を滅ぼし、祝福が与えられる。そして終局の徴(しるし)として地震が起こり、多くの人たちが被害を被ったと記されています。二人の証人は殉教を意味し、それは教会を意味する。だからどんな状況下でも希望を失わず、一歩前に進み歩みなさい。というメッセージを迫害・弾圧下にある教会に語ります。

 第二次世界大戦下D・ボンヘッフアーはナチスに処刑され、エルサルバドルではロメロ司教が銃弾に倒れ、アメリカではM・キング牧師がそしてブラックモスリムの指導者M・Xも銃弾に倒れて「殉教の死」を遂げます。それらの道は狭い門(マタイによる福音書7章13節)に入ることです。わたしたちは、今は迫害・弾圧下にはありません。しかし、そのような「世」が近づいている。

 殉教ということばが死語ではない時代が来ること。そしてその時を忘れずに準備、備えておかねばならないのです。

 福音派の人々が政治的な発言を厭わずにそれを信仰の問題として捉えている。ということを忘れてはならないのです。

 自分の「安心立命」に終始し、日本のキリスト教はかつての過ちを見過ごすならば、わたしたちは主の証人にはなれません。大きな壁がわたしたちに立ちはだかっています。安易な道を選択し、この世と妥協しながら、前に進む限り、教会はこの世の見張り番となることは出来ないのです。

 月報『黎明』にも書きましたが、木下尚江や柏木義円はこの世に妥協する道を選びませんでした。わたしたちは問われています。「神の民」となるためには何が必要なのか、そのことを心に留め、神の民、キリストの証人として、主イエスの十字架の道を歩むものでありたいと願います。