【悔い改めることはなかった】
                     ヨハネ黙示録9章13~21節


金曜日のNHKの「首都圏情報ネタドリ」で、七人に一人の子どもが貧困で教育を受ける環境にはないことが報道されました。その番組の中で出演者が、貧困は連鎖するのではなく、積み重ねである。義務教育で教育支援が行われたとしても、その後どこの自治体も貧困状態にある子どもたちの支援は行ってはいない。というコメンテーターのコメントにハッとしました。

 福音書の中で困惑を覚える譬えがあります。マタイ福音書20章1~16節。そこでは、朝9時、12時、3時、5時、何時間働いても同じ報酬(賃金)を受け取ったぶどう園の日雇い労働者のことが書かれています。この譬えばなしが、神の愛を語っていると読むことが一般的ですが、ある人が女子大の講義で「能力に応じて働き、必要に応じて消費する」という観点で話したところ、全体のおよそ 三分の二の学生の、「こういう意見は間違っている。働かなかった労働者にも賃金を与えるなんて、間違っている。それじゃ、働いた労働者が損をしてしまうではないか。そんなの不公平だ。働かない労働者は、自分が悪いのだから、賃金をもらう資格なんかない。」という意見に困惑したと彼は書いています。実は様々な社会保障はこの譬えが大きな影響を与えています。

 非正規雇用で毎日の生活に追われている人たち、高齢者、障がい者は金食い虫だという考え方が社会に伝染し、蔓延するとき社会は生きづらさを増します。

 ヨハネ黙示録9章には、額(ひたい)にしるしがない者の罰が語られる(ヨハネ黙示録9章4節)。この背景には明らかに戦争があります。ローマ帝国によって完膚なきまでに滅ぼされる。迫害・弾圧される中でヨハネは幻を見ます。

 ここで語られている天使も堕落天使です(ルカによる福音書10章18節)。堕落天使の力は絶大です。わたしたちはそのことを悲惨な歴史、戦争を通して知ります。堕落天使たちは人間の三分の一を殺すことがゆるされています。

 歴史の主は、わたしたちを導き、守られる。しかし堕落天使たちは、それに劣らぬ力があたえられる。その悲惨な現実を目の当たりにしても「悔い改めることはない」。これがわたしたちの世界の現実です。そして神は四人の天使を解き放たれます。

 ヨエル書を読むと、いなごは裁きの象徴であることがわかります。いなご、馬は戦争に直結します。そしてこの戦争で三分の一が滅ぼされます。残りの三分の二は難を免れました。戦争はまさにわたしたちにこの現実を突きつけます。戦争は弱者を徹底的に痛めつけ、戦禍を逃れた人たちを「難民」とします。しかし、今日の世界はこの「難民」を受け入れない。それが世界の現実の姿にほかなりません。

 黙示録はわたしたちの現実の世界を物語っています。あの「ぶどう園」の譬えを受け入れることが出来なかった女子大生たちのように、このイエスのことばを福音の価値観として理解出来ないならば、わたしたちは「悔い改めぬ者」とされるのです。

 礼拝後、2019年度の第一回総会を行います。昨年の歩みをふりかえり、2019年度のビジョンをみんなでつくりあげねばなりません。

 教会が第三の「居場所」(サードプレイス)となるためには、わたしたちはどのような歩みをすることを神さまは望んでおられるのかを、共に祈りながら歩みを進めていかねばなりません。祈りはわたしたちに力と勇気とビジョンを与えてくれます。