【主の復活 ハレルヤ】
「 復活節」第1主日      イースター合同礼拝メッセージ
          ヨハネ福音書20章1~10節、Ⅰコリント信徒への手紙15章12~20節

 ケファとはペトロのことです。ペトロは最初にイエスによって神の国の宣教のために召された弟子で、彼にイエスは「天国の鍵」(マタイ16章13~20節)を授けられました。しかしペトロはイエスが逮捕され、最高法院で裁判を受けるとき、イエスがかねて言われたように「知らない」とイエスを否定します。

 パウロは義憤に駆られて「この道の者」と呼ばれたキリスト者を迫害・弾圧したひとりです。彼はダマスコ途上で復活のイエスに出会います。(使徒言行録9章1~9節)

 彼らは復活のイエスに出会い、価値観を180度変えられ、二人とも初代教会を代表する指導者となります。この二人に共通することがあります。それはイエスに過ち(罪)を赦される体験をしたということです。

 ペトロは服従を誓ったにもかかわらずその誓いを破りました。パウロは正義感に駆られて「この道の者」たちを迫害しました。そのような彼らをはじめとする弟子たちは、皆赦される体験をします。パウロはⅠコリント15章で「復活」について書いています。

 復活されたイエスは今も生きておられ、私たちが絶望したとき、失望落胆したとき私たちを励まし支えて下さいます。この「出来事」は理性では説明できません。

 ある人は復活を真実なことであると言います。

 「彼らは史実とは写真に写り得る出来事であると、しばし定義される。それによるなら復活は史実ではない。復活はむしろ、地上のイエスが歴史を越えて神のレベルに達することを意味する。一方、復活は真実である。正確に言うなら、信仰の対象は、復活という出来事よりもイエスが今も実在していることである。つまり、キリストの復活というよりも、ルカが記したように『イエスは生きている』と表現した方がいい。」といいます。またこの言葉は「身を起こす」という言葉から来ています。イエスは今も生きていて、わたしたちの傍らにおられます。その場所は「辺境の地」ガリラヤです。すなわち文字通り重荷を負う人たちの所におられます。

 「あなたがたよりも先にガリラヤへ行かれる。」(マルコ16:7)と言われた場所におられます。イースターのこの時、わたしたちはイエスの復活を祝うためにこの礼拝に招かれています。弟子たちの罪を赦されたイエスは今もわたしたちの傍らにおられ、苦しむ人、悲しむ人、重荷を負うすべての人とわたしたちが繋がることを望んでおられます。わたしたちは神さまから赦された者として、聖書に生きましょう。そのようなわたしたちを神さまは決してお見捨てにはなられません。神さまが招いておられる「主の食卓」を通して、わたしたちも「イエスは生きておられる」ということを体験しましょう。

 弟子たちの罪を赦された神さまはわたしたちの罪を赦して下さいます。そのことを信じるとき、どんな時でも「だいじょうぶだよ!心配はいらないよ」という言葉がわたしたちにも与えられます。

 復活は理性では理解出来ません。けれどもわたしたちがそのことを真実として受けとめ、イエスの招きに答えるならば、自ずとわたしたちは復活を信じることが出来ます。共にそのことを信じ、主が招いておられる「主の食卓」にあずかりましょう。