「四旬節」第6主日 ゼカリヤ書9章9~10節、ルカ福音書19章28~40節

イエスは、エルサレムに入城された。その入城の時に乗られたのは馬ではなく、誰も乗ったことのない子ロバであった。と福音書は異口同音に語っている。
イエスは「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子に命じられる。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。」
エルサレムに入られる前に、イエスはこのようにいわれる。そしてろばの持ち主の了解を得てイエスはエルサレムに入城される。
ろばは平和を象徴する。バビロン捕囚に帰還したイスラエルの民に対して、預言者ゼカリヤは語る。「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓喜の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられる者/高ぶることなく、ろばに乗ってくる/雌ろばの子であるろばに乗って」。(ゼカリヤ書9章9~10節)
エルサレムはガリラヤとは異なり、繁栄した都であった。前後するが、弟子たちはオリーブ山からその繁栄の様子を見たに違いない。その場所に神の業である数々の奇跡を行われたイエスが入城される。弟子たちは勝利するイエスを見たのかもしれない。
イエスは馬ではなく、子ろばを用意するように命じられ、持ち主の了解を得てその子ろばに乗られて入城されたのにその意味を十分理解してはいない。
ルカはここで他の福音書とは異なる言葉でその様子を語る。「祝福があるように。天には平和/いと高き所には栄光があるように。」(聖書協会共同訳より)
この言葉を読むとき、ある光景が思い起こされる。「いと高き所には栄光、神にあれ/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2章14節)
イエスが誕生した知らせが天使を通して卑賤の職業として差別され、偏見の目でみられていた羊飼いたちにかけられた声が再びここで登場する。
他の福音書を読んでみる。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られた方に祝福があるように。」(マタイ21章9節)「ホサナ。主の名によって来られる方に/祝福があるように。」(マルコ11章9節)「ホサナ。主の名によって来られた方に、祝福があるように/イスラエルの王に。」(ヨハネ12章13節)
ホサナとは、いま救い給え。仮庵の祭りに歌われる言葉で、詩編118編25節にこの言葉がある。熱烈に歓迎した背景には困窮がある。その中身は記されてはいないが、前後のコンテキスト(文脈)から、イエスをメシアとして受けとめたと推察出来る。
人びとはなつめやしの枝を持って迎えた。木の枝(マタイ)野原から葉っぱについた枝を切って敷いた。(マルコ)と記しているのに対して、ルカはその情景を異なる言葉で伝えている。
なつめやし、仮庵祭りのこの枝で小屋を作った。(レビ記23章40節、ネヘミヤ8章15節)
ホサナ。なつめやしは、繁栄と勝利を意味した。
しかし、イエスは勝利、繁栄とは180度違う道を歩まれる。それが十字架への道に他ならない。
弟子たちにイエスは三回も「受難予告」(9章21節、43節、18章31節、34節)しているが、弟子たちには、イエスを理解出来ない。
「受難週」のこの時、わたしたちはイエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城されたことを共に分かちあった。最後にイザヤ書53章を読みたい。
ここにイエスはどのようなお方かが語られる。子ろばに乗ってエルサレムに入城する意味を「苦難の僕」の歌として読まれたこのイザヤ書53章をこの時、わたしたちは心にとめたい。
理想の王は、権力という暴力で民衆の声を封じ込めるようなことはしない。「小さくされた者」と共におられるお方は馬ではなく、子ろばを用いられる。
榎本保郎牧師は自分を「ちいろば」といっている。主は私たちを用いてくださる。わたしたちが正義と公平に生き、聖書に生きるならば、そしてその者たちはあのイエスがゲッセマネで祈られた(ルカ22章39~46節、マルコ14章32~42節、マタイ26章36~46節)言葉を心にとめる。
委ねきる生き方はわたしたちには出来ない。しかしイエスに従う者として、イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入城され、十字架の道を知った者として、その贖いによって生かされているものとして、主の十字架を担う者として祈りを献げたい。


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